歴史認識

歴史に限らず、何かの認識を相手に対して強要することは、どこか乱暴だ。

原理を解明してみよう。何らかの認識を想定すると、まず認識する範囲とか収集する情報に差異があるだろう。仮に同じ範囲と取得した情報でも、判断が異なるだろう。

このような原理のようなものを否定することは困難だろう。そして、強要とは認識範囲、取得情報、判断のどれか、或いは全てを他を排除して一方的に唯一とする行為のようなことと言えるだろう。

このような構図で考えると、他を排除し一方的に決定することが乱暴に感じられること自体を強要するものではない。今回、この強要という言葉を抽象的な意味で使用する。

何かの考えを強要することと対照的な言葉はなんだろう。というより、ここでの強要とは自分の考えを相手に伝えるだけでなく相手にその考えの通りになることを望み成し遂げようとすることとするなら、二点に分解出来る。伝達と作用だ。では、作用を除外するとどのように感じるだろうか。そのような言葉としては表明だろうか。

単に表明するだけなら、問題視しなくてもよいのだろうか。まあ、問題と感じる部分には多様性があるから、ここでの筋立てとは本質的ではない末節部分を問題視する可能性は否定出来ない。しかし、ここでの筋立てとしてなら、些末に感じられる。

ということは、作用の意図に問題と感じるのだろう。表明という情報を取得して、自らその表明に賛同することと、強制的に同意させられることの違いを強調することで理解出来る。だから、乱暴に感じられる理由も容易に理解出来る。

さて、歴史認識に話を戻そう。

上の筋立てに従うなら、歴史認識も表明で停止すれば乱暴には感じにくいだろう。しかし、他人に強要するとなれば乱暴と感じるだろう。

このことを基本とするなら、他国の乱暴に歩調を合わせることは乱暴な行為と思える。単に事実を明らかにするだけなら、事実認定となるだけのことで、その事実から判断することには多様性があるだろう。事実認定=何某、ではない。

この基本線を遵守することが保たれれば、長期的に整合性があると思う。しかし、ある瞬間で反応すれば、後刻との整合性が破綻する可能性が高いと思う。

広い視野を持てない人間が多数存在し、それらの瞬間的に感じることを民意として汲み取ろうとすることは、後刻との整合性が破綻すると言っているようなものだ。それは歴史から学べることと考えている。

つまり、簡単に言えば、落ち着いた議論をすればよいだけで、かみ合わない議論をする必要は全くない。ただし、形式でも相手を尊重する姿勢もまた大切なことだ。その形式を踏みにじると感じる行為をすることで無用な反発を招くことは馬鹿らしいと思う。

要するに、国内支持者にどのように映るかという観点を重視するか、みたいなことに尽きると思う。長期的には自ら学習し判断する人間が多数になれば、そんな配慮は不要になると考えている。さて、どのくらいでそのような状態になるだろうか。夢物語なのだろうか。