右傾化か?

興味深いコラムを書く人が右傾化を疑っていた。細かく触れると、位置的に変わらないのに周囲が保守的になっている感覚があるという。

これはその種の話題が多いからだろう。これを考える時に安全保障関係については、冷戦時に平穏であった証拠のようなものだろう。大多数の国民は目の前の仕事に勤しんでいるものだ。我関せずの状態は理解出来る。好ましいかはわからない。

色々な観点があるから難しい。一つは、日本の戦後保障を期待する国の存在だろう。東アジアの平和と国際協力、国民の在外活動といったところだろうか。

それと国内の関心の対象とその対象への感覚と、その感覚への感覚みたいな複雑な話があると思う。

どのようなことが望ましいか、という観点より事実と憶測を区分けする必要があると思う。事実として、東アジアの平和、国際協力、国民の在外活動について知らんぷりすることが出来る根拠は知らない。その知らんぷりを決め込むことが他国からも称賛されるなら、誰の説得する努力を用いずとも多数の支持を得られるだろう。そのような状況とは思えない。

どのような法制度や軍備だろうと侵略する目的では許されないということが憲法九条だろう。運用する立場に関係なく侵略の意図がないことが大前提なのだ。それを疑いとしたらキリがない話にしてしまっているのか、知らんぷりを決め込む意図を隠しているのか、わからないが、何か画策しているように思えてしまう。

自動車は便利だが、楽しいドライブが一転する事態を招くことがある。この結果を想定して危険なことが起き得ることは回避せねばならないという考えは、比喩的に使える。評価は多様性を基本とするので認めたいが、認識する範囲を拡張すれば、別の評価の観点も理解出来るだろう。

この場合、誰かの手助けを必要とする者が想定出来るのに、自動車を運転しないことに決め込むようなものだろう。その状況を観察する第三者は、自動車を運転すれば助かっていたのに、という感情を抑制する義務は負わない。能力も立場も周囲の期待する相場のようなものがあるのだろう。

その責任感みたいな意識は、何かの根拠で説得することが出来るのだろうか。感情のようなものは自らの情報収集に依存すると思う。平たくいえば、これこれの根拠があるから義務感のような意識を持ちなさい、とは決して言えない。倫理観というより副作用があり過ぎて効率が悪い。

馬鹿らしいと思うのは、余分の反発を呼ぶんだ。気持ちを発散する目的なら別の手段があるだろう。多数の支持への期待なら、気持ちを理解出来る人間だからこそ逆に抑える役割があるだろう。それが広い視野を必要とする立場の人間への義務的暗黙の要請だろう。