サッカー選手

一流選手とは、どのような選手だろうか。客観的に観測出来ることで判断するか、選手が一流と判断出来る人の評価を聞くことだろうか。

服装や用具の扱い方で一流ではないと判断することは、どのように考えればよいだろうか。判断基準を示さずに評価結果だけの開示もあわせて考えると、色々と他のこと、例えば入社試験に置き換えて考えられる。

ボールの扱い方、例えばリフティングやドリブルを見てある程度の目安にするなら、納得するように思える。さらに、実際のゲームを見て判断するなら、納得感は高まるような気がする。ゲーム中に大まかな指示を出してみるようなことなら、より信用出来そうに思える。

剣道や相撲のような場合に用具を雑に扱うなら、武道への姿勢を疑うという観点で理解出来る。

サッカー選手の試合での貢献度を予想する目的で考えると、判断の為にゲームまで行うことと信頼性は高まるだろう。一方で、費用や負担で限られることもある。どの程度が望ましいかは、適宜によるだろう。

そして、判断基準の開示があれば、信頼性をある程度確認出来るが、開示がなく評価結果だけの提示では信頼性が測れない。

別の例に置き換えてみるとわかりやすいかもしれない。入社試験なら、試験を明確に意識しない隠密試験としてみよう。

開示の有無は、それぞれに評価出来るかもしれない。しかし、本来的ではなさそうな、しかし、客観的に観測出来ることで評価することに、どのような見方をすればよいだろうか。

利点として挙げるとすれば、費用や負担の軽減だろうか。サッカーを知らない場合、ゲームを見ても判断出来ない可能性が高く、客観的観測という方法を選択するかもしれない。

チームのファンの立場で考えると、試合で貢献することが予想出来るサッカー選手をサッカーを知らない人が足切りすることに耐えられるだろうか。

その際、評価基準の開示がなければ、不満に思わないかもしれない。とすれば、選抜方法の開示は、ファンの為に必要という可能性がある。その認識が多数派とは、とても言えそうにない。盲目的に信頼しているのだろうか。

組織の人事を想定してみよう。誰かの判断という点で、機関決定と権威者の裁量を比較すると、なんとなく機関決定がよさそうに思える。これは経験的に感じることでbiasとして認めるべきだろう。しかし、実際には権威者の裁量が適切な場合もあるだろう。それが、色々と難しくしている。

ただし、社長を選ぶ委員会については、他の方法の可能性もあるが、好ましいと定着しつつあるように思える。ただ、暴走への歯止めという意味だけではないことを願うばかりだ。

人事については難しいが、サッカー選手を比較することと同様に考えると見えてくることもあるだろう。同様に考えるべき、ということではないことを念の為に記す。

究極の人事は選挙なのだろう。それは、適切に機能しているのだろうか。サッカー選手の評価と異なる点と似てる点はなんだろう。

やはり、どこかで委託的にならざるをえないと思う。情報の取得の観点でも、判断の決定までの経路の点でも、どこかで委託することになると思う。現実解としては認める以外ないが、程度の話としては距離感の違いを多様にすることが望ましいように思える。

選挙の話ではない。選手の話だ。

選手とファンの立場で考えると、不合理な評価の排除が担保されることの必要性を感じることが起点のように思える。排除の担保とは、社長人事の委員会みたいなものに限らない。