若葉の頃

今が新芽の時季、若葉の頃と言えるだろう。もっとも、その期間は長いから特定することは無理だ。

植物に動物の脳に相当する部位はない。しかし、毎年同じ頃に同じような動きをするのは、なんとも不思議に思える。細胞単位の情報と何かの連携のような複雑な情報と、色々考えてしまう。

植物の種類の違いで、花の咲く時季が異なるのは、結果としての戦略だろう。同様に、葉や実に関しても戦略的な違いがあるに違いないと思ってしまう。種子の運搬係みたいな役割を鳥や動物に担ってもらうには、それなりに戦略があると想像するからだ。

このような互いに依存するような関係を共生と称するのかもしれないが、もっと広く解釈してもよいと思う。何が作用して、何が影響するかを知り尽くしている訳ではないという立場からは、複雑な関与関係はこれからの解明に委ねられていると考える。期待しているという表現が妥当かもしれない。

日本のように四季があることを当然と考えるのは、地球規模では異端かもしれない。

気候変動で、現在の自然の美しさが失われると想像すると、なんとか守りたいと考えることに無理はないかもしれないが、気候変動自体に関しては、知り尽くされたと考えることにこそ無理があると思う。

真理の追求と実利の恩恵は切り離して考えることがよさそうに思う。実利として、資源の無駄遣いを削減する努力を冒涜する必要はないが、作用関係の解明としての真理は謙虚に無知であることを自覚する必要はあると思う。

例えば、蒸気の発生を観察するとして、どのような観察条件を記録するかは、この真理追求の姿勢にかかっている。何らかの成果を得られれば、記録が貧弱でも構わないという姿勢は、その真理追求の価値を理解していないからと解釈されてしまうだろう。

宇宙からの影響という意味では、宇宙線や太陽の記録は大切なものだろう。広範囲な観察に役立てられるからだ。いや、必ずしも役立つ訳ではないが、可能性はあるだろう。

なんとなく、芸術の匂いをさせたタイトルなのに、芸術のかけらもない話になってしまった。まるで詐欺だ。いや、毎回詐欺のようなものだろう。

根性の桜がある。セメントブロックの崖の雨水用の穴から枝が延びている。そのうち一人前の桜になるのだろうか。楽しみなような、期待外れの予感があるような、そんな感じだ。