排除の根拠

世の中明確な主張が好まれるのか、他の主張を排除して自分の主張を通そうとすることが目立つ。

ある面では、その主張に説得力があるだけに厄介だ。多面的に見ると説得力を欠くことになりやすい。他の面をどのように認識しているのか、聞いてみたい。

教師を聖職者扱いすること自体、否定することは難しい。しかし、教師も人間だから、人権その他の権利を有する。だから、聖職者扱いというだけで権利を排除する論理が理解出来ない。理解するとしたら、聖職者扱いという面だけを見て、他の面を見てないとしか考えられない。

品質を高める為に、作業者の失敗を叱責することをよく見かける。これも、本来的品質向上は組織的に実行するはずなのに、その認識が欠けているとしか考えられない。

仮に、実行者と設計者に分けるとしよう。ある面で特化すると評価されやすいのは実行者だろう。それに比べて、複数の面を把握すると評価されやすいのは設計者だろう。

実行者の人数と設計者の人数では実行者の人数の方が多く、評価基準も実行者基準が多数派になりやすいと想像出来る。このことと、日本においては、組織のトップダウンの指揮系統が発揮するというよりも分権的現場優先の文化が評価されやすいということを合わせて考えると、ちょっとした発想にたどり着く。

つまり、実行者と現場が主流派で、現場から一歩引いて視野を広げた考えは、汗をかかない要領のよい人間の発想という風にとられているのではないだろうか。

現場で汗をかいた人間と認めて初めて考えを尊重するという手順になると理解すれば、聖職者扱いも現場の汗と同様のことと思われる。

この仮説の通りとすれば、色々な場面で納得することが出来る。失敗の叱責も、手順の一つなのだろう。

そして、トップダウンの指揮系統が発揮しにくい土壌も、この仮説の通りなのではないだろうか。

傾向と対策のように考えると、すぐ対策を考えようとしたくなるが、まずは仮説の検証が先だろう。誰か、よろしく。

仮説については、納得感がある。あるだけに、主張に踏み切ることは避けたい。

一度戻ろう。

ある面だけの主張は、他の面を見落としている可能性が高いという話において、一つの仮説を提示した。この場では納得を放置して他の検証に期待することにして、さて他の面を見落とすことを問題とすべきだろうか。

気持ちの上では、仮説の筋立てに即したいが、他の面の見落としを前提とすることに疑いを持つべきだろう。多様性至上主義の立場なら、一つの面だけも立派な多様性の一つと考えられるからだ。

ただし、圧倒的多数派が一つの面だけの主張とするならば、多様性を失う実態を悲観することになるのだろう。

人数での多数派は不問として、多面性の多様性という括りは技術的に難しい。なぜなら、多面の括りに多様性があるからだ。だから、抽象的な多面性という概念になるのだろう。

その抽象的多面性において、一面主張の他の面の排除をどのように考えればよいのだろうか。ここで見落としという言葉ではなく、排除という言葉に変えた理由は、他の意味を類推しがちな言葉を避けて他の意味を持たない中立的な言葉を選択したからだ。前提を問う必要性を失う。

さて、その排除は単に認識の範囲と理解するだけでよさそうだ。認識の範囲で競合する意味は、別の機会に譲ろう。ここでは、相違とその要因に分解するまでにする。つまり、どちらがよい悪いという概念の余地がないということだ。

ん~今回は逃げに逃げた気がする。なぜだろう。