巧拙と是非

よいとされることには、色々ある。程度も色々ある。発信する側と受信する側の解釈の違いもある。ここでは、巧拙と是非の違いに焦点をあてる。

巧拙とは、どちらでも目的を達成するが、違いは効率のようなものとしよう。是非は、目的を達成するか出来ないかの違いとしよう。

発信側が巧拙のつもりで発する一方で、受信側が是非と受けとめると諾否では相違が認められず、解釈の相違に気づきにくい。

偉い創業者の叱りは、時折伝わってくるが、その多くはどうも表面的というより本質的な原因のように記憶している。実際に怒鳴る人もいれば、行動で何気に指摘する人もいるし、禅問答のような遠回しの言葉で伝える人もいる。多分、手段の違いはあっても本質的な原因という点では共通するような気がする。

この時に、表面上の話と受けとめるとズレが生じる。つまり、本質的には問題が解消されないのだろう。この場合、本質的には巧拙の話かもしれない。そして、表面上では是非の違いかもしれない。

これから巧拙だから軽視出来て、是非だから重視すべきということではないことが理解出来る。

目的達成を基準とすれば、巧拙の違いを軽視したくなることは容易に想像出来る。しかし、本質的とは、必ずしもその個別事情での目的達成とは無関係に存在する可能性があるということだ。だから、感覚を鋭敏にしなければ見逃してしまいがちと思われる。

この感覚を鋭敏にすることは、どのようにしたら可能なのだろうか。それは、目的達成を唯一の基準にしないことが一つだろう。予断をもって状況判断することを避けるということと言える。

また、直感的に想像する通り、是非の重視も、巧拙に比べれば当然あってもおかしくはない。タイトルから読み取ることは、多分この話になるので割愛しよう。

単純によいとされることを多面的に評価することは有用なことと考えている。是非と受けとめると思考停止状態に陥りやすい。巧拙の可能性とよりよいものの追求とまみたいな発想か考えると見えてくることがある。それが本質的なことの可能性が高いと思う。

当然と考えることが思考停止の始まりみたいなもので、その停止状態からは新たな発想は生まれにくい。

このことと似ている話を最近聞いた。認知症の発症が少ない職業があるらしい。一つは芸術家で、もう一つは忘れた。よくは知らないが、芸術家は思考停止することなく新たな発想をすると想像している。もし芸術家の発想が認知症に有効なら、例えば絵画を趣味にすることは流行するかもしれない。

一度戻ろう。

巧拙と是非の違いを目的達成の可能性の違いとして考えてみた。そして、目的達成を基準とすることに対して多面的に考えることが出来ることを提示した。一言で多面的としたがそれなりに深みはあると思う。

別の展開を想像していたが、割愛してしまった。今さら持ち出せない。

ただ、この展開から色々と考えることが出来た。それは別の機会にしよう。話の展開も無計画に任せると思わぬ拾いものをする時があるらしい。やはり、無計画な展開にしよう。ん?計画構想力が疑われている?