好みの自覚

はっきりとbiasと言い切れないことがある。好みについてはbiasとして距離をおくべきと考えている。

何かの判断をするときに、どのようなことを判断材料としているか、その材料の豊富さを好む傾向がある。逆に貧弱で薄っぺらには危険を感じる。確かに経験上危険な判断が多かったような記憶がある。

また、積分より微分を好むようだ。その意味は例えばスキル水準の高さより高めていこうとする意欲を評価していると思われる。これは恐らく努力を続けている人が結果的に偉業を達成していると考えているからだろう。

偉ぶるより真摯であることを好むことも理解している。客観的冷静な判断を邪魔することの一つに真摯ではない態度ということを経験上嗅覚として身についているようだ。特に固執することで無駄な労力を強いられることを明確に経験しているからだろう。

もう一つbiasと言えそうなことがある。判断について別の提示をするものの却下されたことに関する結果的採用への反発だ。これは却下時の判断能力の無自覚に対するもので、結果的採用自体すら理解出来ないことが多い。脱力感以外のなにものでもない。

簡単に括ると、無能なのに偉ぶる独裁者に反発して、能力を不問として他人の意見をないがしろにしない真摯さを持つと好むようだ。

こんな話がある。ある文科系出身の社長が技術的意見を言ったが、技術者たちははなで笑って本気にしなかった。しかし、その社長は自信をもって研究に励み東大の博士を取得する程の果をあげた。この話から何を考えるだろうか。

経験的に予断をもったのが技術者たちだろう。その時点で成果は遮断される。真摯であれば、相手がたとえ偉い社長でもこの際無関係だろう。判断の邪魔になる情報を排除して有用な情報を採用することが真摯さの表れだと思う。

目の前の成果に忙しいという理由はあるかもしれない。しかし、100%の遮断をどのように考えるだろうか。余地があれば、遮断なく成果に結びつく可能性が生じるだろう。

多分、このようなことを重要視するから上のような好みになるのだろう。それに比べて目の前の成果は大した問題と感じていないということも大きな要因と思える。それが問題なのかもしれないが。

好みを自覚して、難しいことだが客観的に見ると、それが汗をかくことなのかもしれない。ちょっとわかりにくい表現をした。他人の汗をかいている姿で、初めてその他人を認めるという仮説を提示したが、その汗のことをここでの好みとして他人に見たいという仮説通りになっていることを言った。

その通りだとすれば、他人にその汗を暗黙に要求しているのだろう。ん~、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。というより、最初から諦めているように思える。

上の好みを現在の人間に期待することを考えれば、難しいことが理解出来るだろう。多くは目の前の仕事に忙しいのだ。目の前の仕事に直接結びつくことと即座に判断出来なければ、関与する意欲は湧きにくいだろう。結びつく発想に至る時間的猶予を確保することが出来る人間は圧倒的に少ないのだ。というより、その経験が不足しているのだろう。

なんとなく、わかったような気がする。情報を関連させていく手段を身につけている人間は少ないのだ。この少ないという事実は当然と言えるが、当然と実感出来なかったのだ。なぜ実感出来ないかは触れない。

わかったところで、さて、どうすればよいのだろうか。

人間は当然と考えると見失うことがある。ごくごく当たり前に考えることが他人も同様に考えられるとしていること自体に見失うことが含まれているのだ。

なんて当たり前で、なんて新鮮なのだろう。今回は別の機会に再度整理したい。