銀座

日本一土地が高いところと理解しているが、最新データの確認はしていない。

銀座が賑やかになったのは、明治以降だから二世紀には達していない。日本の歴史からみれば、短い期間と言える。

もし銀座に土地を所有していたら誇りを持っていたかもしれないし、賑やかであり続けることを疑いもしないと思う。しかし、所有していないから、客観的に考えられる。しばらくの賑やかさは疑わないが、長期では他の場所に抜かれることをかなり確からしく感じる。

賑やかになる要因とは何だろうか。確定するとして、変化しないと考えられるだろうか。

賑やかな要因を確定することは難しいと思う。統計的に他の土地と比較するデータを収集することは出来るかもしれないが、分析したところで、その分析結果の通りに要因を真似して賑やかになると言えるだろうか。つまり、分析結果が得られるなら、とっくに真似していると考えられるからだ。

漠とした印象という分析結果がせいぜいではないだろうか。それが二世紀近く続いただけの話で、将来を保証するものではないだろう。

生活環境の変化によって、出かける先が変わることは多いに考えられるだろう。人数と可処分のかけ算と考えると、どちらの変化も当然あると思う。

これは土地を所有していない羨ましさからのひがみで考えている訳でもないし、銀座を盛り上げようと狙っている訳でもない。

土地だけの話ではないと考えている。好まれるスポーツや芸術分野が変化することはありえるだろう。現在の隆盛は将来の隆盛を保証するものではないのは、同じことだろう。ただし、隆盛の努力が継続するなら可能性は高いということだろう。

では、銀座はそのような努力がされているのだろうか。それはわからない。ただ、高い店賃を支払える店子の存在に市場原理が働くような環境を保持するなら、努力とは別に可能性を高めると思う。

努力と市場原理を挙げた。これは他にも適用出来るだろうか。なんとなく出来るように思える。例えばハリウッドは、どちらもあると思う。欧州のサッカー、米国の大学たと色々思い浮かぶ。

さて、賑やかの要因を探すことは難しいとしながら、努力と市場原理と反するような話をしている。矛盾だろうか。賑やかの要因を分析の結果とするなら、努力や市場原理という抽象的概念とは異なるように思う。上に挙げた他のことも同様だろう。要因の分析結果として個々の理由を求めても、その個々の理由は他で有効とは限らないと考えるのだ。

もっと抽象的に考えてみよう。賑やかさを人々の関心の高さとしてみよう。努力と市場原理が関心の高さを保持すると考えると、それはそれで説得力があるような気がする。

もし、その説得力が真実とするなら、例えば、政治への関心を高めるには、努力と市場原理は有効なのだろうか。そんな気もするし、そんなことにはならないような気もする。わからない。多分、政治への距離感を測ることが難しいからだろう。

このようなことを考えると、総花として努力を分散することは愚と感じるのは、おかしなこととは思えない。むしろ、総花的分散が支持されることを問題視する必要を感じる。