型の形成

脳の発達は類似の経路を強化する型の形成と理解している。だから、外からの情報の要素に直結する脳の素細胞が型を形成して認識すると考える。その素細胞の型形成からさらに型形成していく幾段階もの型の積層で複雑な認識が可能になると思う。

これらの形成方法は、元となる要因と結果としての型積層に違いはあっても、形成過程そのものにほとんど違いはないと考える。

で、結果としての形成に何らかの傾向があるとしたら、その傾向に何かを見出したいと思うのは不自然ではないだろう。

例えば、類似の量が同じでも強化に違いがあれば、傾向とみなせるだろう。型の形成は強化によるものとするなら、傾向は強化でしか見出せないと考えることが素直に思える。

つまり、結果としての好みや関心の傾向は、何らかの強化傾向で説明出来ると言える。

これは大胆な結論だろう。因果関係の説明と統計的な説得力は違うと思う。それを因果関係のように説得する説明は、因果関係抜きに権威で説得しているような印象がある。

因果関係の根拠が乏しいのだ。しかし、結論は正しいと確信するとしたら、どのような行動が適切なのだろう。

多分、目の前の人間を力づくで説得するより、歴史の評価に耐えられることが適切なのだと思う。拍手より無言の支持ということだろう。それを信じられるから、現在の拍手や喝采に応えようとするこどもじみた反応より、無言の支持の確からしさに信をおくのだと思う。

強化傾向に戻ろう。

型形成が出来るのは、報酬があるからだろう。脳の報酬によって強化傾向があると思う。そこに外的要因の余地があるだろう。つまり、他の人間が関与する余地があると言える。

強化傾向の傾向を考えると周囲の影響をその傾向と考えられるだろう。

では、それを踏み込んで何かの違いで、傾向を明らかに出来ないだろうか。それが文化の違いのようなものになるのだろう。

形成結果としての違いを明らかにすることを目的とすると、わからないと思う。形成過程で、過程の長さに違いがあるような気がしている。

わからないことをわからないと素直に認識することと、わからないことをわからないままに出来ないこととの違いがあると思う。わからないままに出来ないということは、何らかの結論を出しているのだろう。確からしい根拠もなく結論を得ると想像すると、その結論を導き出す機構を信用することは難しいと感じる。

どうも、そのような匂いを感じることが多いと思う。