型形成の短絡化

型を作ることに対して報酬系が機能していると、有効な型を作ることより作ること自体に対して報酬を得ることが考えられる。これが短絡化ということになるだろう。

現実世界で考えると、何かについて何かと定めるようなものだろう。表面的に知覚出来る事象を何らかの説明で納得するみたいなものだ。

しかし、因果関係で理解していないから大抵は破綻する。それでも、破綻していることを認識しなければ、先の納得を批判する機会を失する。

このような理解で世の中を眺めると、その理解で納得してしまう事例が多いと思う。だからなのか歴史は繰り返されるのかもしれない。

教育について問題意識を持つ人がいる。どのような問題意識なのか、多様だろうが、大括りでは社会的規範と基礎的知識、そして一般教養というもののように思える。それさそれで教育に求められるものとして否定することは出来ない。しかし、優先という観点で考えると、型形成の話になるのではないだろうか。

断片的知識は単なる情報と言い換えられるだろう。知識を関連付けるから新たな関連を見出せるのだと思う。型形成が短絡化していると、断片的知識のままになってしまう危惧がある。それが結局社会的規範が身につかないとか、一般教養が確立しないとか、そのような結果をもたらしているのではないだろうか。

どこかがおかしいと思うのは、型形成が短絡化していないからではないだろうか。間違いでも自分で考えて結論を導き出すことを当然とする感覚の持ち主が、おかしいと感じられるように思える。

どうすればよいか、みたいに考えることは一見よさそうに思えるが、多分もう少し理解を深める必要があると思う。

なんとなく、もう少しで把握出来そうな感触がありそうな、なさそうな、そんな感じでいる。

社会の暗黙の評価ということなのかもしれない。暗黙だから明示されず、推測することが暗黙という状況を変化させる積極的理由にならないのではないだろうか。多分、そのような辺りを整理することになると思う。