記憶の傾向

快適な記憶と不快な記憶では、快適な記憶の方が強力という試験結果があるらしい。また、快不快の記憶遷移もあるようだ。

これを正しいと結論づけたとして、直ちに何かの判断が出来る訳ではない。しかし、記憶の傾向を認めて影響を仮定することは可能だろう。

例えば旅行の経験を振り返って、体験した時点では不快な出来事も、よい思い出になっているということを仮定するみたいなことが考えられるだろう。

歴史を振り返って、繰り返されることの要因の一つとして仮定出来ると思う。

振り込め詐欺が似たような手口で騙される理由も、この仮定で納得してしまう。

この仮定自体は、脳のbiasで説明出来るように思える。報酬に見合わない情報と報酬に見合う情報を比較すると、優遇されるのはほぼ決まっているだろう。生死を左右する程の経験は意識可能な範囲というより無意識の範囲に埋め込まれて、類似状況で無意識に利用されると理解する。

さて、この仮定を社会的傾向として何か考えられるだろうか。歴史は繰り返されるだけなのだろうか。

石炭と鉄鉱石が産業でもてはやされた時代と海の資源が魅力的な現代は似ているのだろうか。争いを回避した経験を活かすことは繰り返されると信じるのは軽薄なのだろうか。

他人が何かを判断する場合、信じる方法はどのようなものだろうか。情報を精緻に把握する方法が正統的とするなら、限られた情報では信じる方法がないのだろうか。

判断に際して、自ら苦労する前途しかなければ苦労共々判断は適切に行われると推測することが多いだろう。このことから、立場にない無責任な発言に傾聴の価値がないと断じやすいことがうかがえる。そこに限られた情報から自らの判断を行う意志が見当たらない理由がありそうだ。