形式の尊重

古典芸能は落語を含めてある程度の型があるようだ。落語は落ちがわかっているにもかかわらず、毎回受けている。

お笑いのギャグは毎回同じことがするが受けている。正義の味方を主人公にするドラマは決めぜりふや決めのものでドンデン返しを毎回行う。

これらには何か共通する理由があるのだろうか。なんとなくあるような気がしてくる。

受け入れられる状況ということは理解しても、なぜ受け入れられるのか、その理由は全く理解出来ない。同じことが繰り返されることを楽しめるのは、音楽の演奏なら理解出来るが、笑えるという観点では全く理解出来ない。

ドラマや推理ものなら、決めの型は主役というより味付けの調味料みたいなものだろう。だから、あえて取り上げることではないと思う。

しかし、お笑いは理解出来ない。なぜ笑えるのだろう。不思議に思える。

それでも考えた。バナナの皮で滑って転ぶことを笑うのと同じことなのではないだろうか。これも種明かしされて笑えない人と、わかっているけど笑える人がいるように、その程度の違いでしかないのではないだろうか。

落語の場合は、落ちは味付けの位置付けと考えられる。勿論、主な役割と解釈出来る余地は残る。しかし、ギャグはそれ自体で笑いを取る目的になっているから、目的をその程度とすることに何か腹立たしい思いがある。

お笑いで繰り返しを避けることを強いたら、次回はないことになりやすい。それが安易なギャグを生み出したのではないだろうか、と邪推する。

もう一つ恐ろしい推測は、型で行動を共有することが安心感を求める気持ちにつながっているということだ。周囲と同調することが安心感を生むみたいな解釈のことだ。

同じ注文をすることも似ているのだろうか。これは違うような気がする。食事で悩むなら、何でもよいとする安易な理由が強いと理解しているからだ。

だが、他国と比較しないと理由はわからないと思う。比較文化みたいなことなのだろうか。

もう少し高い水準のお笑いを欲求しているからかもしれない。しかし、徘徊おじさんという替え歌で笑えるくらいだから、新鮮さを求めているだけだと思う。