誤診率

ある教授が最後の講義で自分の誤診率を打ち明けたらしい。それを聞いて、一般人は多いと感じ医者は少ないと感じたようだ。

誤診率の数値そのものの多少はわからないが、一般人と医者の感じ方については興味深い。日本の刑事事件の有罪判決の割合について、外国人はどのように感じるだろうか。笑い話かわからないが、日本の弁護士は怠慢という声を聞いた。

誤診率について公表されているかはわからないが、誤診の可能性がある前提と誤診がない前提のような、どこか不自然な実態が何かに似ている。

刑事事件もそうだが、原発の事故もどれだけ努力しても可能性は皆無にはならないことをどこか忘れているように思うのは、どこかおかしいだろうか。

90年代の不良債権処理以前なら、銀行の破綻はない前提のような神話を作っていたように思える。

そんな似たような神話があるのではないだろうか。消防署の火事も、司法関係者の窃盗も、神話ではないと思うが、どうだろうか。

数学者の計算間違いは、いつでも起きると思うのは少数派だろうか。商店や自動販売機の釣り銭を確認しているのは、当然だろうか。

常識を面白い表現で疑念としたのは、有名な物理学者だ。

個々の常識を分水嶺のように峻別する努力は歓迎されるだろうか。冠婚葬祭の拠出金の目安はありがたいと思える反面、常識とされるのもどこかおかしいのではないだろうか。

冠婚葬祭の拠出金の目安みたいに、一定の常識の存在をありがたがる評価が定着要因ではないだろうか。なんとなく、この解釈は説得力がありそうだ。

つまり、ある役目を担う者はその役目を全うすることを求めているのではないだろうか。そんな解釈で眺めると納得してしまうことが多いような気がする。

それが安易な判断を醸成しているのではないだろうか。

整理してみよう。

色々なところで隠れた神話が存在しているが、その理由として役割を全うすることを暗黙に求めているからということが考えられる。そして、その暗黙の要求が安易な判断力を作り上げている可能性があると考えられる。

どうだろうか。導き出し方として不自然な印象はなさそうだ。

これとは別に日本人特有な特徴というものを考えていて、今回の神話をその特徴で説明出来ると考えていたが、今回の話で少々路線変更になりそうだ。

なかなか面白い。行き当たりばったりの無計画なものもよいもんだ。ん?そればかり?