伝道師

真実を理解しているが周囲は理解していないという状況で周囲に説明して理解してもらうという役割は、伝道師と言えそうだ。

地動説と天動説は、その象徴的なものだろう。それ以外にも周囲が理解しないという歴史はあると思う。

これを現代に置き換えてみよう。近い将来を単独で理解して周囲はなかなか理解出来ない状況というものはありえるだろう。やれ非常識だとか、突拍子もない大風呂敷だとか、そんな否定的扱いをされて妨害さえも受けるという成功話の過程はよく聞くと思う。

成功したから伝わっている。成功の途上にあるなら、自信を持つとよいと思う。

さて、このような状況をありがちな話として聞き流してよいだろうか。一見すると非常識のように思えることを肯定の目で理解しようとすることも一つの可能性への努力だと思う。似ていることは既に述べている。

幾つかの観点がある。なぜ周囲が理解しないのに理解出来るか。周囲への説明はどのようにすれば円滑になるか。周囲が理解しないならば、どうすればよいか。

なぜ理解出来るかは個々の状況で異なるだろう。しかし、大括りで関連する知識が十分ということは考えられる。逆に関連知識が不足するから理解出来ないということだろう。つまり、大雑把な話として関連知識という土台作りが周囲への間接的説明と言える。

関連知識さえも受け入れないという状況ならば、将来の世代への期待ということが基本だと思う。

歴史的名著は同時代の理解は進まなかったものも多いように思える。リンカーンの名演説も、その演説を直接聞いた人はその時点で即座には評価しなかったようだ。歴史の評価と言えるのではないだろうか。

これとは状況が異なるが、法を犯すような行為でなくても、自らの規範意識と乖離していると感じるならば離脱は賢明かもしれない。

こちらの意見を聞かない、聞く耳を持たない、みたいな疎通を遮断するような聞く力がない場合も似ているかもしれないが、相手だけの非ではないかもしれない。相手を肯定してみる努力を怠るなら、位置付けは同じに思える。

それよりも、このような伝道師のような圧倒的理解は希少性があると感じるならば、もう説明は不要だろう。感じなければ、説明は容易ではないだろう。つまり、どちらにしても説明はやめよう。

聞く耳を持たない状況が経験的に多い。というより多すぎる。というよりそのような状況ではない経験が少ないと感じるならば、問題を自分に求めても見つからないと思う。上のような状況と似ているからだ。どこかに関連知識の不足があると考えられる。もしかしたら自身に不足していて相手を理解してないだけかもしれない。

このようなことを考えてみると、周囲を納得させる為に奇跡的な行為をしたことも、権威をもって説得力を持たせたと考えられなくもない。これは伝説の類になるから、そのような見方も肯定の方法として提示した。肯定も難しいということだろう。