知識連合

知識と情報の違いを関連するか単独かの違いとしよう。つまり、関連する情報が知識とする。

他人との疎通について情報を対象にするなら円滑になりやすく、逆に知識の場合は円滑になりにくいと考えられる。関連の組み合わせが異なることに理由を求められる。

何かの話題で円滑にならないとしたら、情報の違いというより互いの知識が異なるからと考えられる。

平和を希求するとしてみよう。これ自体を否定的に評価することはほとんどないと言えるだろう。しかし、平和への努力という観点で考えると様々な努力が想像出来ると思う。そして、中には互いの努力が相殺されてしまうかのような真逆の方向もありえると思う。

このようなことも、情報というより知識の違いが理由という説明は受け入れられるだろう。努力の作用想定が異なるという解釈より、作用の対象が異なるという解釈になるからだ。

ある作業について確立してない場合、初回の達成は保守的に継続されやすい。そこに生産性向上の観点とか初回の継続性を批判する要因がなければ、達成までの多くの失敗という苦労が評価される理由も理解出来るだろう。このような状況で、失敗を回避することを重視するとか、生産性向上を重視するとか、そのような観点で違いを認識すると見失う。知識の異なりが、その状況での最適の違いと解釈することで間違いなく理解出来るのだろう。

歴史に対しても同様だと思う。歴史認識、歴史から学ぶこと、といった、断片的情報ではなく関連する情報から組み立てる知識の違いがあると理解出来る。

つまり、情報の組み立てを知識とするなら、組み立て方は千差万別で、千差万別だからこそ固有的と言えるのだろう。

その千差万別という情報の組み立てを考えると、知識の組み立ては一層複雑と言えるだろう。それが人間の脳が発揮する知識連合と言えるのではないだろうか。

その複雑な知識連合を尊重するなら、他人の考えを簡単に断じることは尊重の逆と理解出来るだろう。組み立てを理解して初めて何かを評価出来ると思う。

歴史認識も他人の言葉を尊重するなら、どのような過程で成り立った知識連合なのか断じることは難しいから、過程なり連合の形成を理解してなければ批判を封じて情報収集に専念することになるだろう。それが外見上低姿勢に映るのも容易に理解出来る。

知識の連合と認識すると、他人の知識連合は、尊敬とか謙遜とか、そのような姿勢にならなければ理解出来ない程複雑で難易なのだと思う。

だから、他人の語る言葉に聞き入る価値はあるのだろう。

話して聞き入ってもらえる人間が周囲にいるなら、その目で観察してみると何かが掴めるかもしれない。掴めないかもしれない。

大事にするのは、知識連合の形成ということなのではないだろうか。