戦争の反省

戦争の反省という話はよく聞く。しかし、抽象的に反省とするだけで、何を反省の対象にして、どのような反省をするかは、聞こえてこない。

反省だから反省すべきことがあるという前提だろう。戦争を起こさないことだけが反省すべきことなのだろうか。起こさないことが反省すべきことなら、どのような反省の内容になるのだろう。とにかく戦争を起こさないということだろうか。

ここでの戦争は、暗黙に太平洋戦争としているが、より一般的に取り扱うことも出来るだろう。

それより、具体的な反省を問うものではない。認識することについて、包括概念で説明出来るように思える。つまり、反省という言葉は包括概念でしかないと主張している。

考えてみよう。その当時からみれば将来である現代において、情報はかなり確定していると考えられる。その確定した情報を元に当時の何を変更すれば反省する事態にならないと言えるだろうか。ある象徴的な事態の変更で結果も変更出来ると言えるだろうか。この問いとしての枠組みで解決する努力は、具体的対処と表現するのだろう。抽象的対処、つまり例えば戦争を起こさないみたいな話にするなら、現代として確定した情報は不要と言えるのではないだろうか。

踏み込んで話を進めるなら、空虚な言葉は結論として何ら内容を伴わないだけではなく、言葉遊びをすると想定出来る。これは戦争に限らない。

原発の運転停止が続いているが、稼働は危険で停止は安全という前提があるように思える。しかし、停止が安全ということはどこに根拠があるのだろう。冷却が機能しなくなれば安全とは言えないだろう。この停止が安全という暗黙の前提に、言葉遊びがあるように思える。

原発の事故を起こさない為に原発を廃止するという考え方は、どこか戦争を起こさない為に武器を持たないという主張と似ているように思える。結論ではなく思考過程について似ていると主張している。

何か政治的主張の匂いがあるようなので、対象を変えよう。例えば発明品が事故で負傷という結果となって、その発明品を否定するようなことみたいな話に置き換えられると思う。使用方法に工夫するとか、危険回避方法を考案するとか、そのような前向きに見える努力を否定していると解釈出来るのだ。

反省するなら、目的としての成果への努力につながるはずだろうし、原発の危険性を感じるなら、原発の安全を盲目に信じる愚を反省していないことに気づくだろう。

思考過程の変更で結論は全く逆になるかもしれないが、努力という過程を省略していないことを重視したい。

だから、反省なり安全という言葉を安易に使っているように感じるのだ。そのように感じるから、根拠もなく何らかの主張をしているという言葉遊びに思えてしまう。それが地に足が着いていないという表現になるのかもしれない。

戦争の反省で結論は全く逆になる可能性があることを理解出来るだろうか。また、原発の停止への危惧で原発の推進も廃止も結論は両方を含む可能性があることに気づくだろうか。結論が重要ということではなく、結論までの過程が重要という主張でしかないことを理解してもらえると思う。

どこか一足飛びの論理飛躍みたいな印象があるのは、包括概念ということで説明出来るように思える。

仮に過去に戻れるとして、どのような時代のどのような状況で誰をどのように説得すればよいと考えるだろうか。という問いを設定してみると、かなり難しいことが想像出来る。

仮に冷温停止状態にならない事態を想像すれば、割と思いつくと思うのは、おかしいのだろうか。

ずれているのは誰なのだろうか。ずれていると仮定して出直してみようか。それもまたよし。