広義貨幣

ベースマネーの制御は中銀の責任範囲と理解する。マネーストックは間接的だが強力な影響下にあると理解する。

国内を主に考えるなら、貨幣量は通貨量と同義になるだろう。しかし、実態を素直に認めれば国内だけではなく国際市場で考える必要があるだろう。

また、マネーの性質を定義通りにみるよりマクロでみると定義の一つだけを満たしてもマクロ影響と考えられるだろう。だから、市場の影響が少ない外貨準備を除外して、決済引き当て資産相当の貨幣類似品を広義解釈する意味はあると思う。

ということは、広義貨幣として、その量を考慮する意味があるということではないだろうか。考慮する主体者が誰か、その制御能力への疑念と付与の可能性とか色々考えると錯綜することが多いと思う。ただし、その錯綜の前提は現実的解としての実現手段という実行段階ということになるのだろう。それは暗黙に了承を意味している。

広義貨幣の定義は困難だから数字の把握は現段階ではない。しかし、抽象的な責務主体者が広義貨幣量を制御可能とするなら、狭義金融政策とは別に、或いは同時に広義金融政策みたいなことを司ることになるだろう。

狭義金融政策は、国家的或いはEUのような地域金融政策を司る中銀の責任になるだろうが、広義金融政策は国際市場を対象にするから個別市場からみれば狭義と反する可能性は否定出来ない。

問題は山積している。広義貨幣の対象とか量の把握とかさそんな技術的見地もあるが、より難しいのは権限とかそんな認識を出発点とする思想的浸透だろう。伝統的な立場からみれば異端でしかない。

金属の金や土地を始めとした不動産、様々な権利を証券化した株式を中心とした証券類は、利用を目的とするというより資産としての所有を目的とする意味が強いと考えるとしよう。上の広義貨幣と考えられるだろう。

例えば、有名な絵画を考えてみよう。芸術を理解する立場からみれば冒涜の可能性が高いが、活用を想定しなければ所有としての資産、つまり、広義貨幣類似品相当と考えられるのではないだろうか。絵画とする部分を有名人の日記とか歴史的物品と置き換えてても同じように考えられると思う。

定義や数字の把握とか技術的に難しいことが理解出来るだろう。多分、そこが問題ではないと思う。

思想的哲学的に必要と認められるかどうかが問題だと思う。必要と認められると努力は独り歩きするだろう。必要と認められなければ、反発だけを生むことになると思う。

その必要と反発の分水嶺が歴史上の選択なのではないだろうか。個別人間は選択への関与も認識していないだろうが、全体としては選択していると思う。

再挑戦の意味ではないが、結果的に再挑戦したようなものだろう。これはこれで頷ける部分があると思う。

難しい。