自己肯定

売れっ子グループの事件で、そのイベントを紹介していた。誰かも裏切られたとか、そんな声があったらしい。

交通関係の講習でビデオを見せられた。事故の被害者が加害者の印象を話していたが、態度が悪かったようだ。

これらから直ちに何かを判断出来る訳ではない。しかし、連想として自己を否定されることの対極の行動のように思えた。

自己のおかれた状況を当然とする想定より低いと感じると、自己を否定されるというbiasが働くと理解する。そのbiasによって自己否定を否定するような働きとして、自己肯定行為になると考える。

裏切られたという声は、実際の理由はわからない。しかし、上の理解のように考えると、他者に原因があるという認識で事実を曲げるという解釈は説得力があると思う。

加害者の態度が悪いのも似たような解釈は説得力がありそうだ。

よいとか悪いとかの評価は、ここでは問わない。しかし、因果関係としての真理の追求みたいな意味では問いたい。

我慢という言葉が適切とは思えないが、自己を否定されるかのような状況で逃避行動にならない場合と自己肯定のような行動を起こす場合があるとして、その違いの理由は我慢のような耐性の強さにあるように思える。

腐らずに本分で努力する姿は感銘を受けやすい。そのような傾向は他人に影響を与えやすい。この影響を認めると、そのような努力の影響を及ぼす範囲の文化的傾向が強化されるという因果関係が想定出来ると思う。

文化とは、様々な定義があるだろうが、ここでは社会的評価傾向としよう。つまり、周囲の影響によって評価傾向が変わり得ると考える立場ということだ。

自己肯定のような耐性が低い行動は、個別的因果はわからないが、統計的傾向としては、文化的作用の結果とも考えられるだろう。

強い独断だが、現在発展している最中の情報機器の利用は、本来は様々な混合で認識するものを特徴の強調で色合いを鮮やかに認識しやすくなると考えている。簡単に言えば、物事を特徴的に捉えることを当然視しやすいということだ。それが耐性を低くしているのではないだろうか、という独断を述べる。同意を求めるものではない。

自己肯定をしなければ、自己否定を認めることと同義のように捉えていると考えなければ、自己肯定の行動が理解出来ない。短絡的結論は危ういので、それ以外の可能性を考える努力が必要と思われる。

やはり、人間は動物なのではないだろうか。論理的構築の歴史が存在しているにもかかわらず、構築結果を否定するような事実は数多く繰り返し認められる。それは今後も続くと強く予想出来る。というより、その予想を否定するような状況が認められない。

歴史の繰り返しは、人間が動物である証拠なのだろうか。そんな想いを強く持ってしまう。