工程の領域固定化

製造業に限らず生産活動には様々な工程がある。領分とする工程の前後を視野に入れなければ、その工程での最適化が進行すると思われる。

作業領域とする工程以外の経験が貧弱な場合、成果優先にしがちだから経験豊富な人間に任すことが多くなる。その作業配分の傾向が強まると、経験を積む機会を失ってしまいがちになる。

経験を語ると、ある工程以降を任す前提で始めたことがいつの間にか元通りのようになってしまったが、前提通りを通したことがある。体制、或いは、態勢が出来てから始めるとしていたのに、その態勢が出来ず、結局失敗した。理由は本当のところはわからない。しかし、その特有なことを除外して、なるべく一般的な話に終始して、態勢が出来るまでが当面の目標であることは何度も口にしているから、進まない理由を理解することは容易なはず。よくある話は、一般的な理由とその仕事特有の理由の区別がつかないということで、悲劇なのか喜劇なのか主張する個人特有の理由と理解してしまうこともある。

一般的な消費者を顧客と想定してみよう。顧客の求めることを満たす為という理由と理解が顧客からみれば容易になる。しかし、作業上ある行為を管理者なりが求めるとした場合、顧客からの要請という理解ではなく管理者の指示としてしか理解しないような状況が考えられる。このような事態は悲劇だろうか、喜劇だろうか。

そのような事態を防ぐ意味で、工程を俯瞰して理解することが一つの解決策だと想定すれば、その任の立場が手っ取り早いだろう。

教科書を覚えることより、実際に経験して必要と感じる情報を取得することの方が知識の獲得という意味で効率がよいだろう。必要と感じない知識がありえるのか、疑問ではある。

このような考えは独自のものかもしれない。このような考えとは、必要と感じることが単なる知識より行動を確かにするという考えのことだ。必要と感じない知識とは、単なる知識ということを暗黙に主張している。だから、十分な知識があるなら、必要と感じるということだ。

そんな想いが通じないとしたら、その想い自体を否定するか、通じる手段が稚拙なのか、そのように理由を考えるだろう。

工場で、ある工程だけを任されて作業するが、管理者からの指示に不満を持つというような状況はよくある話だろう。その状況で、管理者と作業員のどちらに原因を求めるか、みたいな問いをどのように考えるだろうか。意識のすれ違いという説明は説明になっているようで説明になっていないと考えている。指示の仕方と不満の内容で異なるだろう。それを括ってしまうのは惜しい。

一つの大事故には幾つかの小さな事故とひやりがあるみたいなことは、この小さな不満にもあると思う。小さな不満かもしれないが、原因を放置すれば大きな紛糾になると考えられるだろう。

革命はいきなり起きる訳ではない。小さな不平不満を放置しているから起きるのだ。少人数のテロも、どこかに一理ある可能性を拾う努力を怠ると危険に感じる。正当性を主張するだけに終始する政権の末路は歴史に学ぶことが出来るだろう。

また、脱線が大きくなった。

一度戻ろう。

一カ所を懸命に守るような一所懸命な姿は傍目から理解しやすい。しかし、工程の領域固定化は不幸と考えることが出来る。その説明が今回の話だ。他の工程に関心を持つことを奨励することも解消手段かもしれない。解消手段は状況に応じるだろう。

失敗の理由はわからないが、別の工程を任せて経験する方法で失敗したことはある。だが、経験が有効と信じている。しかし、それ以外の方法を否定するものではない。

子どもに道路で遊ばないで、と叱ったとしよう。子どもからみれば叱られたから、その人がいると遊ばないがいないと遊ぶ、みたいなことになることは想定出来るだろう。似ていると思うだろうか、似ていないと思うだろうか。