安政の大獄
歴史の事実を正確に把握している訳ではない。だが、抽象的な認識が出来ると思う。この抽象的認識とは、反対勢力を弾圧して実権を強制的に行使するというものだ。歴史上のどこにでも繰り返される構図と言えよう。
思うに大獄は明治維新と因果関係にあるのではないだろうか。反対勢力からみれば、また弾圧される恐れを抱えていたと考えれば頷ける。歴史的事実を把握する前提とすると推測は何も出来なくなるので、荒っぽく考えることとしよう。
弾圧的姿勢は相手を硬化させてしまう効果があるのではないだろうか。これは歴史というより現代でも途上にあるように思える。
弾圧という言葉は、権力の行使を連想させる。226事件は、権力の行使と言えるだろうか。テロの類に思えるが、他の意味を含まない言葉が適切に思える。実力行使だろうか。実力がなく結果的に行使出来ないことを含めると適切とは言えそうにない。
言葉が思い浮かばない。後日思い浮かぶことを期待しよう。
さて、自らの意見を通用させることを優先しようとして、他の意見を無視することを意味する言葉が思い浮かばないとしても、その言葉の意味の通りに動いていると思われることは多いだろう。
強制的な実力とまでは言わなくても、他の意見を無視することを含めて捉え直すと、その範囲に含まれることは多いだろう。
硬化効果は、範囲を拡大してもあてはまるように思える。これが反対勢力の一理の無視ということになるのではないだろうか。
よく聞く言葉にガス抜きがある。一理の無視をしない努力になるのだろう。
一理の無視をしない努力みたいなことが、事後対応だとしても必要なのではないだろうか。
その一つかもしれないと思われるのが、説明責任とか透明化みたいなこととするのは、どうだろう。納得感みたいなものが得られるなら、必ずしも間違いとは言えないと思う。
争わないことで溜め込むと不幸な事態にまっしぐらなのだろうか。