起業

昨日のタイトルを忘れた。今回のタイトルをつけるつもりだった。書き忘れたので、書く。

他人の活動を批評することはよくある話だ。ただ、その批評には何かへの結びつきを考えてしまう。

よいとする批評は、どんな点がよいのか、活動する当事者の参考になったり、別の誰かの参考になるなら、社会への貢献になるだろう。

悪いとする場合も同様だとは単純には言えない。ともすると、劣った他人と優秀な自分という構図を吹聴するだけのことになりがちだからだ。やはり、何か別の提案のようなものが欲しい。

実行する人間が完全なことはほとんどないだろう。何かが不完全だから、指摘することは容易だ。そんな指摘するだけの者で、実行が出来ないことがわかるから、多くの人は、そんな批評だけの者を黙って不快に感じていることになる。

つまり、このような状況を一括りに捉えて、他人に意見することすら含めて快くないものと扱ってしまっているのではないだろうか。それが、結果的に反省にならず同じような失敗が他人によって繰り返されるのではないだろうか。

直言するだけでは、先の構図との類似を予感させるが、当事者にとってよいこと、発言者の立場ではなく当事者の立場としてよいこと、を目的とする前向きな提案を別の他人にも感じさせるようなことになれば、聞く耳を持たない者でも他人からの説得とかの援護の可能性すらありえて、提案の実効性が高まると思う。

要は、提案する内容も勿論大事だが、聞く耳を持たせる状況作りも大切ということだろう。

ただ、気になるのは、聞く耳だけを重視するのもおかしな話になることがある。もう少し深く理解する必要がある場合に、深く理解しなくても行動出来る提案のようなものだ。これは、安直な期待を当然視してしまう懸念になる。それでなくても、安直行動への期待感が充満しているようなものなのだ。

起業、ここでは既存事業の新規開店ということではなく、目新しい事業という意味で使っているが、その起業は、目新しいだけに批判を呼びやすい。そんな批判への経験値を高めることが必要なのだろう。

脳の中の情報の関連付けは、一朝一夕には構成出来ない。それと同様に、関係者間での的確な疎通も一朝一夕には成り立たないと思う。