同調

流行を作り追いかけるのは、どちらかと言えば若い人が多い。最新の音楽は典型的だ。

若いと流行に影響されやすいと考えてよいだろうか。当たり前と考える人もいるかもしれない。統計情報で把握したいと考える人もいるだろう。とりあえず、若いと流行に影響されやすいとして考えてみたい。

新しい概念を表現する言葉があるとしよう。流行とは異なるだろうが、その新しい言葉に影響されやすいとしてみよう。

影響されやすいとは、受け入れると考える。影響されにくいとは、拒否なり疑念を持つと考える。

受け入れるとは、どのようなことだろうか。拒否なり疑念を持つとは、どのようなことだろうか。受け入れるとは、他との関連がなさそうで、疑念はその逆で他の確実な情報の存在を暗示しているようだ。拒否は、拒否の根拠となる、やはり確信めいた概念が暗黙に存在しているようだ。

このことだけで考えると、沢山の概念を保有していると、そもそも受け入れる余地が少ないと考えられないだろうか。受け入れる余地が少ないとは、確実性の高い概念の保有ということではないだろうか。

これは、鉄は熱いうちに打て…という言葉を連想させる。

個人としての概念の確立がされてない状態とは、受け入れやすいという柔軟性があるということでもあるし、経験が不十分だとも言える。

よい評判とされることへのよい印象を簡単に持ってしまう傾向も、これで理解出来るだろうか。また、別の説明を要すると考えられるだろうか。

概念の確立と娯楽の類とは異なるとも考えられる。その場合、既存概念の保有でも新しい娯楽は受け入れやすいという、なんとも論理の関係で理解出来るだろう。

仮に、既存概念の有無に関係なく娯楽は受け入れやすいとしよう。さて、仮にでなくとも、その世界で楽しんでいる人は、年齢に関係なく新しいことを受け入れることが出来ると思う。

と、ここまで書いて、新しいことを受け入れるということと、流行を受け入れるということは、似ているようで違うのではないだろうか。自己の確立した楽しみを既に持っていて、その上で新しい楽しみも受け入れるということと、自己の確立した楽しみがなく流行に流されているという違いのように思える。

ちょっと話を広げ過ぎた。というより、道筋が見えなくなった。流行とは、なんだろうか。流行している音楽を楽しむことを典型的なものとしてよいだろうか。新しい言葉を使うことと違うのだろうか。

流行を一過性のものに限定することと、恒久的利用の端緒を含めて考えることは、どのような違いがあるとしてよいだろうか。多分、この辺りの整理が不十分なのだろう。再挑戦だ。

ただ、途中で連想したのは、明治維新の原動力になったのは、松下村塾と斉彬で、その薫陶を受けたのは若い人だったのではないだろうか。斉彬の場合、隆盛を介したと考えられる。

よい影響も悪い影響も心に響く経験があるように思える。学校教育も、成人後に評価されることと言えないだろうか。