認識問題

仕事で難しいことの一つは、認識の相違がある状況で成果をあげることだろう。対顧客、対取引先、対上司部下と相手は様々だが、情報の受け渡し、つまり、与える立場でも受け取る立場でも、正確にやりとりすること自体が難しいと思う。

資産の流動性を問われることがある。経済活動の共通言語である会計の見方からは、流動と固定の費目構成が常識とされている。しかし、お題目として習うとその意味を理解していないことになるだろう。

流動性は、市場、つまり、取引する相手が存在することを前提としていると思う。それより、その暗黙の物差しを当然として疑わないことに疑問を持つ。

流動性とはなんだろうか。固定的に考えるものとはなんだろうか。何よりも、その違いを何より重視する意味はなんだろうか。

会計を習うと、その本質的な意味を前提として細かい知識の習得に集中してしまう。それがよいことかもしれない。わからない。

確かに、今日も飲んでいる。

情報の非対称性と、会計の流動性は似ていると思う、というより、そのように感じる。流動性とは、評価の普遍性と情報の対称性が担保されていると確信する状況が前提にあると思う。固定的とは、その逆で封建的なのだ。

江戸幕府明治政府という比較で理解しやすいことも、自動車会社や電気製品の製造会社なら当然のことが、小売りでは当然視されないことに疑問を持つことは不自然ではないだろう。

取引先とは資本関係にないことを当然とすることに、問題視も当然、当然視も当然、ではないだろうか。どちらも、生産性の追求の旗の下に貫くことで努力すれば、評価は下るだけのことでしかないと思う。そのような捉え方で考えると、小売りの一部を極端とすることの方が不自然に思える。不自然ではないところに、どこか暗黙に毒されている何かがあるのだろう。

ただ、株主の立場と顧客の立場では異なることも自覚する。株主として歓迎しても、顧客になることは想像しにくい。ただただ、高い。いつもの小売りが安いからだろうか。

作業上での情報伝達で、通常は円滑になる。円滑でなければ、仕事にならないからだ。その円滑な状況を当然と考えるから、認識の問題になりやすい。他人の当然と自分の当然は、異なることが多いと思わないから認識問題になるのだろう。難しい。当然と考えることを当然としないことを理解してもらうと考えると難しいことがわかりやすい。ん?説明が混乱する。