期待

確定と予想は将来の眺めとして似ている。しかし、変動の有無を前提とするか否かで全く逆になる。

一定以上の成果をあげることを求めることを考えてみよう。約束通りの成果をあげることとそれ以上の成果をどのように考えるだろうか。周囲と比較して周囲と同程度の成果以上をあげることが出来ると確信すると、どのように考えるだろうか。

今世紀の資本論を持ち出さなくても、経済活動の成果の取り分として、活動実体より資本の取り分が大きいのは上のような事情があると思う。

活動実体として経営層と固定作業の作業員を比較するならば、やはり経営層の取り分が大きいだろう。

天候によって大きく変動する事業があるとして、生活給としての労働に対しては事業が不順でも確定給になるだろう。不順を見込んで変動を吸収する仕組みがなければ、そもそも事業が成立しないからその仕組みが存在するのだろう。

このような、不確定要素を織り込む仕組みで均せば取り分が大きいのは、資本の投資者になるのだろう。

仕組みの詳細に立ち入らずに、不確定要素の変動負担と取り分という観点でだけ見ると、確定した活動実体ほど変動の負担が少なく確定していることになる。その逆で、活動実体というより純粋資本投下の委託者ほど、確定から遠ざかり変動の負担が大きいと言える。

この構図だけ見ると、今世紀だろうと元々だろうと、資本論の主張する構図を想起してしまうだろう。

しかし、世の中は重層化しているから、人間としての実体は両方に同時に存在することが可能なのだ。この可能性を根拠に、上の構図で言う所謂資産保有としての社会層を形成することを否定する。

資本分配分について、生活給に含める考え方もあるだろうが、そのような個別契約としての発想より社会全体としての配分という発想の方が自然で効率的な気がする。

今回のは、再挑戦すべきことと最初から決めている。荒っぽいが、とりあえず書くことを優先した。

以前少しだけ触れたが、その時は給与としての配分に含めることだった。しかし、社会全体で血液化すれば、余分な脂肪としての蓄積は防げるのではないだろうか。取得や保有としては、富として歓迎することが当然視されている。しかし、循環の滞りとして考えると必ずしも歓迎すべきことではないだろう。

この辺りは、思想的にも感情的にも微妙なことを含んでいる。結論を急がず、ただ見方の多様化を考えるだけでよいのではないだろうか。という気がする。