指標

木の葉の落ちる場所を予想するとしたら、どのように考えるだろうか。

着地点予想の要素として、重力、木の葉の形状、風向き、といったものが考えられる。計測可能なものは何だろうか。という具合に考えたりするが、得られるものとかかける労力とか、そんな枠組み次第で相当異なる取り組みになると思う。

一つの興味の赴く方向で考えるなら、得られることの解明を含めて課題として多大な予算投入で科学技術の粋を究めるみたいなことを妄想する。

しかし、今回はその赴きから外れる。今回の舞台は木の葉の話でなくても構わない。率直に言えば、指標というものを考える材料にするだけのことだ。

形状をもって、例えば北向き力といった指標で数値化するとしたら、そこに統計的な有意が見られたら、多数の支持を得ると思う。普段の生活でも、統計的有意を認めてなくても、○○力みたいな表現を見かけるだろう。サッカーの得点力みたいな表現のことを指している。

この指標は何かの象徴という意味でしか使っていなかったものが、いつの間にか定着した指標という存在になることがある。

木の葉の形状表現として、統計的数値化から北向き力と東向き力での数値表現が確立したとして、統計的有意だから確率的に着地点表現が出来るのだろう。

統計的有意を想起する指標の場合も、確率的情報を想起するのだろうか。

なんというか、言いたいことをなんとなくわかったことに出来る表現みたいなものが沢山あると思うが、そのようなものの一つに、この統計的有意が未確認の指標というものがあるのではないだろうか。

営業力というものは、なかなか難しい。確かに実績を根拠として営業力を推定している実態があると思う。それは、会社や世の中での実力という指標と似ていると思う。これは統計的有意がある一方で有意を認められないとすることも可能な微妙なものに思える。

演技力とか歌唱力みたいなものも、何か難癖つけやすいものになるだろう。

文学的に娯楽性の価値を積極的に認める立場から見ると、この指標への批判めいた考えは迷惑なのかもしれない。

しかし、情報伝達の精度向上を求める立場から見ると、精度を下げる要因に思えるのではないだろうか。というより勝手な指標が簡単に作れてしまう。

未解明の状態で、分析に利用可能な新しい指標は積極的に歓迎したい。試行としての指標も同様に歓迎したい。

文学的に作成されて実務的に利用される場合が怪しい。

ニュースを聞くと、最近ならワールドカップもあって、サッカーの解説を耳にする。得点力とか身体能力とか、なんとなく表現したいことが推測出来そうな気がするだけに、その意味することを想像してしまうのだ。

単に突っ込み力があるからかもしれない。ん?