最適化行動

ゲーム理論囚人のジレンマを知っている人には誤解されるかもしれない。

自分と環境、それぞれ二値を想定して適当な数値を設定すると、自分にとって選択肢は二値に限られるから、自分にとって有利な選択をすると考えられる。

環境の選択には、自分からの作用という労力が必要と想定するなら、本来は四択であるにもかかわらず、実質的には相変わらず二択になってしまう。

労力の応分の数値を引いて考えることになりそうだが、その場合は一過性で恒久的には数値を引く前の数値が妥当だろう。

このことから、人間の判断は当面を重視するものと長期的重視に分かれることが想定出来ると思う。

このゲーム理論的な見方を当然と考えると、抽象的政策に対しても成立すると理解すると思う。その理解のまま話を進めると、抽象的政策は短期重視より長期重視が望ましいと仮定出来るだろうか。仮に仮定するならば、負担分への補助は妥当と考えられるだろう。

政策を個別に考えると様々な事情を考慮しなければならないだろう。つまり、様々な抽象的思考の錯綜する状況を考えるということになると考えられる。この中の一つでしかない。

それでは、環境として多数が共通して最適化すると考えてみよう。この場合、より広範囲な選択肢のより最適値が存在すると仮定してみると、現在位置から最適値位置への変更は暗黙に多大な労力を要すると考えられるだろう。

これがゲーム理論的には様々な改善と言えるだろう。この改善も、先の仮定同様に進めるならば、長期重視の仮定になるだろう。

仮にこれらの仮定が適正ならば、このことから何を読み取れるだろうか。局所最適化は次の最適化の負担を増すと読み取るのだろうか。現在判明した最適値位置は次の最適値位置からの距離が、現在位置からみると迂回路のような位置が考えられるということが想定出来るからだ。それは説得力がある。

考えることは色々あるから、その中の一つとして筋道を追ってみよう。

考えるものは、現在位置がまず挙げられる。次に現在判明している最適値位置を挙げよう。現在判明していない次に判明する最適値位置を挙げてみよう。つまり、位置として、現在位置、現在判明最適値位置、未判明最適値位置となる。これに、負担とか最適値とか、そんなものが考えられるだろう。判明への労力とか考えたら複雑になるが色々考えると役に立つと思う。

例えば、現在の値と現在判明している最適値の値だけの比較で負担より小さければ、移動の動機になりにくいことが読み取れるだろう。そんな有力な思考道具を使わないのはもったいないと思う。

最適化の詮索には評価の共通の度合いが強いと相関して強力になると考えてみよう。その仮定は説得力がありそうだ。

強い価値観の一致は最適化が容易になると言い換えてみる。なんとなく思わせぶりだ。

現在位置の最適化も多数の支持が得られやすいと考えられないだろうか。これが最適化探索の罠と言えないだろうか。

日本刀の製造業と仮の企業を考えてみよう。その最適化行動は、日本刀の製造に適したものになるから資産や技術が最適化された結果と解釈出来るだろう。では、日本刀が売れなくなった状況を想像してみよう。突然瞬間的に出現する場合、より有利な別の武器の発明で次第に売れなくなる場合、のように場合分けしてみると、売れなくなることへの適切な行動が想像し易いと思う。

より抽象的に思考出来るから、個別に役立てることは可能だと思う。よく聞く経営者の発言に過去の成功を捨てよ、みたいなものがあるが、この最適化探索の罠と類似しているように思う。

百人の百人とも同じ最適化行動をすることが望ましいのか、一人くらいは別の最適化探索をすることが望ましいのか、アリの探索行動では後者が望ましいと解釈出来そうだ。

ゲーム理論は、どのように教えているのだろうか。純粋な理論も大事だが、登場の歴史も大事だと思う。やはり、必要と感じる情報が大事な気がする。