実力判定

なんとなく実力がわかってしまうというような趣旨を言葉にして、なぜわかると考えるのか、その根拠を考えた。

どの程度の経営資源を使って、どの程度の売り上げがたつと実感して判断出来るかという点を重視していることに気づいた。これは業界を問わない話だろう。その意味で新聞や雑誌の経営者の言葉も、世の中一般の話はともかく自分の会社の話としてなら、どれだけ自分の会社を理解しているか、どれだけ売り上げの予測を捉えているか、みたいな点を重視して聞いているような気がする。

このことは、敵を知り己を知れば百戦怪しからずみたいな孫子の言に感化されたような感じがする。

それ以前かもしれないが、判断することをかなり重視しているようなので、その判断材料ということなのだろう。

指導力という言葉がある。この言葉の意味は、従う者に対して判断の結果を提示するみたいに一般化することが出来るだろうか。それとも、それ以外の意味を含める或いはそれ以外の意味しかないと考えられるだろうか。

仮に指導者への特別な意味の信頼感こそ指導力と考えるとしよう。別の例でも構わないが、わかりやすいと考えた。

その力で指導力が発揮されるとするならば、発揮されることは何だろうか。それは指導者からの言動によって集団が何らかの機能を果たすことではないだろうか。つまり、それは先の判断結果を提示することを言い換えたものではないだろうか。

ここも否定的に考えてみよう。つまり、言い換えではないとしよう。

言い換えではないとすると、言動と機能実行に分解するとしたら機能実行を否定的に捉えるのは難しいから、言動を否定的に考えてみる。

仮に指導者の判断と直接結びつかない行動で集団が動くとしたら、言動を否定的に捉えることが可能と言える。

これも指導力と解釈するならば、先の判断結果の提示は否定されることになる。まあまあの結論だ。しぶしぶ。

ここは否定の余地があっても判断を重視することが粉砕されたわけではないと強がっておこう。

戻っておこう。元々実力とは様々な力を表現したもので、個人固有の判断があると考えられる。その中で、なぜか実力の判断に間違いがほとんどない実績と感じているのは、なぜをか疑問としては考えたものだ。だから、他の余地は元々存在することになる。

他の余地、様々な実力の他の力を考えることが本来的には意味があることではないだろうか。それが、特定の力を追求することに意味があると感じているのは、なぜだろう。

これは、よくわからない。感覚として他の余地を実感出来ないのか、余りにも特定の力に自信をもっているのか、そんなことしか思いつかない。どちらにも確信を持てない。わからないから、この筋を追うのはやめよう。

では、他人が誰かの実力を判断して実績があるとして、その実力判断を説明出来るだろうか。これは意味がありそうだ。選手を選ぶこと、次の社長を選ぶこと、のような構図では、わかりやすい。

では、次の首相としたら、どうだろうか。まず、その判断結果への実績評価というだけで紛糾するだろう。つまり、それだけ多様性があるということだろう。