不気味の谷

証明実験への参加がニュースになっている。ニュースになるのも関心が高いからだろう。

なぜ関心が高いのかを考えて明確な白黒になっていないからという理由が思い浮かんだ。あの震災の頃に食品の安全性に関心が高かった理由の一つではないだろうか。

この白黒不明確な状態はいわゆる不気味の谷と同じことのように思える。決着がついた途端に関心が薄れるなら、それは強まる。

この仮定の通りとして考えてみたい。

人間一人の話というより、社会全体として考えてみると、白黒不明確な状態のままにしておかないような働きはあるのだろうか。社会全体が注目する場合なら、注目するだけで決着を迫ることになるのだろうか。

物事が不明確な状態のままになっていて、かつ注目されるものとはどのようなものがあるだろうか。未解明の問題については関心があるとしても専門家に任せて結果を待つことがほとんどだろう。つまり、誰も真相を知らない状態と言える。

うん、この辺りにありそうだ。誰も真相を知らないことについては、分野の性質というより解明する努力という暗黙の前提があるのではないだろうか。逆に真相を知る者が存在している、或いは過去に存在していたという状況はどうだろうか。

真相を教えて欲しいという、真相の解明への努力というより、真相を秘匿する努力のようなものを感じるのかもしれない。

本能寺を歴史上の謎の典型としよう。現在入手出来る資料で真相の姿を想像することしか出来ないという状況は、さてどちらに属すると考えるだろうか。これ自体が不明確な事態だ。

いや、真相を知る人という定義すら難しいというなら邪馬台国かもしれない。

個別の話題では話が行方不明になってしまう。

過去は少々複雑な話になるから逃げよう。現在知る人がいるという状況なら真相の公表を求める欲求は理解しやすい。これと情報の透明性というものは似ているだろうか。一括りに出来るくらいに類似性があるように思える。

この情報の透明性は、お題目として理解するより不気味の谷との類似性で理解すると説得力を感じる。

オリンピックの開催地の公表のように事前に予定が知らされていれば、不気味の谷ではないのだろうか。関心が高いと心理状態は複雑だろう。一概には言えない。

ここで一つの鍵になる言葉は関心の高さ、或いは注目度になるように思う。比べるのもおかしいが、開催地と証明実験はどちらの注目度が高いのだろう。そんなところに何か文化的背景の特性みたいなものがあるような気がする。

邪馬台国も本能寺も真相が明らかになっても現代への影響は考えにくいが、太平洋戦争の様々な謎の真相は現代に活かされると思える。