ストーカー

昨日のテレビ番組でストーカーについて放送していた。

知らなかった。そして、対策の必要を強く感じた。

自己の存在を否定されることは千差万別であり程度もかなり違うと考えている。一見他人が理解出来ない行動も多くの場合、存在を否定されると強く感じることが理由と想像している。勿論、検証等に委ねることが基本的態度と了解する。

しかし、ストーカーの現在の対応では危険性を回避する効果が不十分に思われるだけに、効果的な対応を急ぐ必要を感じるのだ。

仮説として、存在を否定される感知機能のようなものがあるとして、多くの人間は重層な回路があるので容易に感知機能には達しないと考えている。しかし、その様々な回路が強化されず脆弱なままの場合、容易に達するということだ。

だから、基本的対応としては十分に存在を肯定することであり、意識が特定領域に集中しない工夫が必要ということになると考えられる。具体的な肯定方法は感性の個人差から一般的方法はなく、個人固有の方法になるだろうが、公約数的なものはあるだろうから方法を積み上げて情報を共有することが求められるだろう。

存在を肯定する方法とは、例えば「あなたほどの人間なら、こんな課題を解決する努力が期待されています。」と別な行動に関心を持ってもらったりな生演奏を聴いたりすることとかだ。

意識が特定領域に集中することとは、日常生活のほとんどに関心を持たず、相手と自己とのことだけを考えることだから、全く別の関心事が作られればよいということだ。別の事件で冷静になることも考えられる。

人間の仕組みとしてはほとんど同じだが、固有な発達の仕方があるから外見的には相当な違いになって現れるだけと考える立場なので、ありえないほど極端な状況になれば、ほとんどの人間は同じような行動を起こすかもしれないという仮説の結論を持っている。だから、批判的に読むことをお薦めする。

番組を見て連想したのは、説明しても毎回わからないという反応以外無言という経験だ。無言以外の反応で疑問があったが、その疑問が理解出来ないので説明の共通基盤の説明だけでも、わからないという反応には、王様に食事を作ったが毎回まずいという言葉以外の情報をくれず、次の食事も手探りするしか残されず、ついには料理の最中にまずいと言われてしまったようなものの感覚を思い出した。

大げさな表現だが人間の存在としての否定とは、このようなことなのかと感じたようなものだろう。

そんな感覚を敷居が低く出現しているようなものと捉える。

しかし、この対応方法は、どのように誰に伝えればよいのだろうか。それがわからない。

そうだ。もう一つあった。被害者になりにくい防衛方法を考えたい。ただ、これはわからない。というより、効果があるという確信が持てない。

要するに、知らない相手はストーカー加害者になる可能性を常に念頭において、過剰な期待を相手に伝えないことだ。もう一つは、識別方法だろう。話題が豊富で面白いとか、識別方法を自分で編み出して身につけることが基本だろう。

それにしても、存在を肯定する方法を身につける教育が不足しているのではないだろうか。根拠ある自信が望ましいが、根拠がない自信は幼年期の愛情を感じることが代表的だと思う。愛情表現は難しい。叱っても愛情を感じることもあるのだ。人間の発達の仕方に「普通」というものはないと思う。

恐らく、カウンセラーの関与が対応方法として強く求められるだろうが、存在否定感覚の過敏性を予断を持っても構わないのではないだろうか。効果の検証が必要だろう。