同形と体系

ここでの同形と体系の簡単な説明と例による説明を試みる。

同形とは元々は数学の用語だが、それを利用して、全く違うものでも同じ働き方があることを指す。

体系とは複数の部分が一体的に機能する様を表す。

超越数と野球のゴロ拾いを例にする。どちらかがわかりやすいことを期待する。

超越数を教科書的に説明すると、幾つかの数学用語を使用することになるので避ける。しかし、何らかの用語を使用するとしよう。

幾つかの用語とは無関係に多次元方程式の解のみでは、実数の直線が構成されないことが、超越数を教科書的に説明することが出来る者でも出来ないとするなら、超越数を体系的に理解してないと考えられる。

野球のゴロ拾いを説明する時に、たまたま地面に接触せずに届いた球を右側で拾い、地面に接触して届いた球を左側で拾ったとしよう。説明を受けた者が、直接届く左側の球を右側で受けようとし、地面に接触して届く右側の球を左側で受けようとするのは、接触するか否かで理解していると考えられる。

ある時期までの赤ちゃんは、目の前に複数の中身を隠した器の移動が理解出来ないらしい。その時期を過ぎると理解するということだ。似ていると思う。

例の説明での、部分的理解をしても、体系的な理解はしていないという点が同形と考えられる。

以上で今回の説明を終える。

どうだろうか。今回は同形と体系を説明したかったわけではない。どちらも説明不要とも言えるし、説明もこなれていない。言いたいのは、なんとなく使っている言葉を時折深く考える機会の意味や価値を感じてもらいたかったということに過ぎない。おこがましい。

何度となく登場する繰り返した説明が無視された経験を納得するまで、ずっと考えている。それを考えることで個別事情の解決にはならないが、副産物としての効果はあると思う。これも言葉を深く考えることと同じような意味になるのではないだろうか。

どこかおかしいことを見つけるとは、体系としての整合性がないことを見つけているからという理由もあるだろう。深く考えることは体系的思考の訓練のようなものに思える。

とかく表面で情報交換されがちな世の中で、その表面で工夫する方向と表面以外で工夫する方向があるのではないだろうか。他人が認識するのは表面部分だが、理解はそこで限定されるわけではないと思う。

今の主張の逆の例がある。主張を台無しにしてしまう。

最近、製薬会社の社員が実験結果を意図的に改ざんして逮捕された。この事件そのものに詳しいわけではない。しかし、作業を理解する者が周囲にいなかったということを見過ごすことは出来ない。

このような状況は簡単に作られ、簡単に犯人扱いされる。それを防止することも必要だが、その正攻法的対策は会社の責任で行われるものと考える。そして、その健全な環境でないなら、作業の正当性を証明する根拠を保存しておく必要があるだろう。

新聞記事の少しで判断する限り、白の印象がある。

ゴロとライナーの状況判断を当たり前と思うか、当たり前ではないと思うか、個人差があるという認識から出発する必要があるかもしれない。そこが難しい。