独裁への道

昨日の記事で金融庁の検査もまともになったと感じた。やはり、国債の扱い方が不十分なところがあったようだ。それを見つけただけでも、どれだけの効果があるか、好感の評価がないのは、当然なのか、評価出来ないのか、どちらだろう。

金利も欧州のマイナス金利の影響という観測も、説得力があるだけに、この国際金融の制御の困難に溜め息が出る。カンザスの鷹派には緩和前なら与したいが、一旦始まった緩和の絞り込みはなだらかであるべきと考える。年内に金利が上がることを想像出来ない。というより、その状況が想像出来ない。

さて、しばらく前に少しリーダーシップに触れたことがある。内容は忘れたが、リーダーシップの説明は多様だと思う。忘れられない民主的手続きによる決定ということがある。それは、リンカーンが会議で自分以外反対する状況で民主的手続きによる決定を行ったというものだ。

指導者と独裁者はどのような違いがあるだろうか。それを考える。

違いをどのように求めるとよいだろうか。各々の言葉を定義することで違いがわかるという考え方もあるだろう。また、決定までの手順と、その手順の決め方の手続きの違いに求める方法や決定の関係者への総数からの関与という見方もあると思う。それはそれで否定するつもりはないが、納得するものでもない。それが正直な感想なのだ。つまり、決定に不満の立場から見れば、独裁者と理屈抜きで感じてしまうことを認めるだけで、納得しないことをどのように整理するか、という問題に置き換わるのだ。

だから、納得出来ないことを考えてみる。自己に有利になる決定ならば、その手続きは不問だろうか。自己に不満な決定は、有利な立場に変わり得る決定も同時に行われるならば、納得しない感覚は減じるのではないだろうか。

そんなことを考えるのだが、これを書き始める前は次のことを考えていた。

知識も含めて情報が等しく完全に保有出来る状況での判断と、知識や情報の偏りを認める状況での判断は異なる。完全情報では民主的手続きによる最適値探索は多分統計的正当性があるだろう。しかし、不完全情報の場合、正確で深い理解による最適値探索がよいと考えられる。後者の極端な例は、天動説と地動説だろう。

というようなものなのだが、この考え方なら、正確で深い理解をする者なら指導者で、そうではないと独裁者ということになるが、それは誰が判断するのだろう。

知識や情報の多様性を認めて、かつ、決定経路と決定自体への納得を得る方法というようなことを考えることになるのだろうか。実際には、それらの伝達手段と時間という資源利用という制約が存在するから難しい。

決定の前段階の提案を丁寧に説明して納得してもらうということが必要であることが説明されただけのような気がする。

つまり、この回で導き出された結論としては、提案段階で説明がなければ、独裁者ということになる。

これはこれで納得する。

正直なところ、今回を書き始める前に、指導者を支持する者は支持する説明が出来るが、独裁者を支持する者は人格を支持するというような結論を考えていた。これはこれで導き出す過程も念頭にあったが、書いていたら、上のようなものになった。これはこれで面白い。

もう少し整理してみたい。何か面白い結論に達するかもしれない。