親切と独裁

親切心は歓迎されるが、親切は必ずしも歓迎されない。

これを心情と見た目の形に分けて考えてみると、発する側というより受け側から整理出来る。

心情より形を求める人、心情を重く見て形に拘らない人、心情は歓迎するが形に好き嫌いがはっきりする人みたいなところだろうか。

それぞれの場合に分けることになるが、多分問題とされるのは歓迎されない親切と親切心のない親切だろうか。

歓迎されない親切とは、冒頭のようなことで、例えば、親切に道案内のつもりで途中まで同行するが他人に誤解されてしまうようなことだ。よくマンガで出てくる。

親切心のない親切とは、当然の行動であったり、逆の意図が結果的に受け側にとって親切と受けとめるようなことだ。不幸になる例は、思い浮かばない。あ、いじめのつもりが結果的に親切になることはあるだろう。ん?不幸なのは誰?

親切心を認めるから親切を拒むことは難しい。親戚のおばちゃんのお節介に閉口することを想像すれば、わかりやすいと思う。

これを舞台を大げさにしなくても、相手の承諾を確認しないで行動することと一般化して考えると独裁と同形に思える。

例えば、仕事で念頭にある人員や原材料、設備ではないものが手配されて、その後の責任を負うことを想定すれば、手配に不満を感じるだけでなく、責任を負う状況から逃避する気持ちになるだろう。手配し直しが許されることをまずは考えることになるかもしれない。

赤字会社の再建の責任者とされるのは、全く経緯を知らされず行われると、上のようなことと似ていると思う。それでも、このような事例をよく聞く。よほどの信頼醸成があると推察される。

このような例を拡大して考えると、巨大な政府債務と貧弱な年金を後世代に残していくことも同形に思えてくる。ただし、親切心はない。

独裁というものは、体制の一つの表現形態のようなものかもしれないが、状況の設定の一つの表現形態ではないだろうか。語感に体制を感じさせるものがあるから、より適切な言葉を探す必要がありそうだ。

未承諾状況とか、そんな意味が埋め込まれることが要件になる。

親切心は関係ないと想定しているが、何かの鍵になるかもしれない。

これも以前から触れている、毎回の説明が無視される勉強会にもあてはまるのだろうか。無視される理由の説明を受けないという意味では承諾していないと言えるだろう。状況として説明と無視という構図が強制されているようなものだろう。初心者を相手にする方がよほど健全な心持ちになる。

政治で考えると、提案も決定も国民に対する説明に尽きる。義務教育である中学卒業程度で理解する説明が希望だが、とりあえず大学卒業程度で構わないから説明する必要を感じることを望む。

言葉として吟味せずに使うなら、独裁を民主的手続きの対抗する言葉と捉えて民主的手続きの一環に説明が含まれるだろう。よく決定経路と手順は注目される。説明も同じくらい重要という考え方を今回で扱った。