指導者

指導者が必要な状況とは、どのような状況だろうか。それを考えてみる。

ある集団で統制された行動が必要な場合は典型的に思える。例えば、一つの船に乗っている場合だろう。

逆に必要でない、というより統制されることがよくない場合はどうだろうか。基本的に多様性に与する立場なので、好む傾向を認める。

統制行動に唯一の適切判断があるなら、指導者は不要だろうか。多分、複数の判断があって評価がわかれるから指導者が必要になるのだろう。

統制行動より行動の多様性が重んじられる適当な例が浮かばないので、便宜的に呼吸の周期としてみる。

呼吸の周期を統一するために何らかの準備が必要だ。どの周期にするか、周期に合わせないことに対する抑止力は必要か、と色々と考えることになるだろう。それこそ息苦しい思いをする。

だが、統一周期の呼吸で多大な恩恵があるとわかれば意欲は強まるだろう。しかし、自然な想定では統一周期は息苦しいだけで負担のみとなって恩恵は皆無だ。ラジオ体操?

指導者を必要とする状況とは、統制で負担より恩恵を感じる状況と言えないだろうか。それ以外で指導者を必要とする状況に思い浮かべればよいのだろう。それが浮かばない。とりあえず仮定して進めよう。

なかなか込み入った話をすれば、統制行動の必要性は認めても判断の決定は先延ばしする欲求があるかもしれない。

船の例で言えば、北と南に別れたとして、反対の決定になるくらいなら、決定を先送りするみたいなものだ。むしろ、統制行動に従わないという、あくまでも自説に執着するような考えを問題とする。

このように考えると、統制行動ということが一つの課題になりそうだ。

その昔、共産主義というものを聞きかじった頃、いわゆる財産の平等とか、そんな概念を深くは理解出来なかったが、どうも行動の統制のようなものに怪しい思いを抱いたことを思い出す。多分、その頃から反統制のような多様性に惹かれていたような気がする。

主義主張を追求するなら、なぜ国の面積を一人当たりの土地に分配していないのだろうか。この素朴な疑問をいわゆる西側の国では、西側の国の考え方で分配していて、それと似たようなことを東側の国が行っているのは、東側の主義主張に無理があるからではないだろうか、という怪しい匂いを少年は感じたのだ。その頃から変わっていないことに今さらながら驚いた。

昔の記憶はともかく、政治に対する傾向としては統制より多様性を自覚している。だから、主張することは意識的に抑制しているつもりだが、思わず出てしまうかもしれない。その時は、ごめんなさい。

整理せずに、正直に指導者というより統制についての考えを述べれば、結果的に効率が悪いと考えている。一つは多様な考えを否定しないで残すことが役立つということで、もう一つは指導に対する依頼心が生じて判断する力を失うという観点で結果的に効率が悪いと考えている。ただし、抽象的解としてという意味だから、個別的にはなんとも言えない。この吐露はbiasとしての提示の意味でしかない。

次も独裁と指導者の話題の近辺の話になるかはわからない。しかし、しばらく時折触れることになりそうだ。