二足のわらじ

本来の意味は泥棒と警察の二役を一人の人間が担うという矛盾することを指す。しかし、現在では複数の稼ぎの意味で通用させている。

言葉の変遷は一般的にありえる。

今回は、自分探しということを考えてみる。このようなことへの批判もあるようだ。別の見方を提示することになりそうだ。

二足のわらじという現在の意味での使い方に表れるように、自分探しには稼業は一つということが前提にあると思われる。複数の稼業を同時に行うことが望ましいとする立場から見ると、つい批判的に捉えてしまいそうになるが、その前提を認めて話を進めよう。

世の中の数多い稼業の中で、自分に適したものを追求するという努力に置き換えて考えられる。つまり、自分の能力と発揮するまでの努力過程を世の中の稼業環境から最適解を探し出す行為が自分探しという短絡化した解釈だ。

この構図を考えると、好機を探し出すように見える批判も理解出来るが、自分から積極的に行動する機会と捉えていると解釈すると違った見方になる。

まず、前提に稼業を生活基盤とする捉え方と、生活基盤より生き方という捉え方の二つに極端に考えてみる。生活基盤が出来るなら、稼業を選択する余裕を感じない構図が前者だろう。後者は、生活基盤は余り念頭にない発想と言えるだろう。

この違いとするなら、文化が進んだ証拠なのかもしれない。いわゆる欲求の段階説みたいなものだ。

一方では、という話をしたくなるが、これはやめよう。類似品は陳腐なものだ。

戦後すぐの焼け野原から活躍した人に、その頃と今の若者なら、どちらを選ぶかという質問に対して今の若者という即答だったようだ。今の方が断然機会があるという理由らしい。

選択が多いことが望ましいという前提に立つ反応だろう。

飲み物だったか化粧品だったか忘れたが、何十種類からの選択よりも数種類からの選択の方が心地よいという実験結果の記憶がある。

小学生に五マスの図形を考えてもらう授業で嬉々として様々な図形を書き出したという授業があったようだ。

人間は限定されると豊かな発想をするという話があり、かなり説得力を感じる。この限定することが豊かな発想になるという主張をするものではない。しかし、不幸かもしれないという見方もあるということは提供したい。

昔の女性は恋愛する権利を剥奪されているようなものという見方を否定するつもりはないが、だから直ちに不幸であったという見方を支持するつもりもない。局部に焦点をあてるのは仕方のないことだが、それで全体を判断することには違和感を持つ。

納得感という観点で、自らの決定はかなり不平の抑止力になると考えている。将来の不平を我慢する為に自分で決めている可能性を言っている。

人間には様々な脳のbiasがある。これもその一つではないだろうか。

二人の写真のうち片方だけ長く見せる実験で、視線を動かす方法と動かさない方法で、好感に違いがあったらしい。

どこかで、辻褄を合わせるbiasがあるように思える。

辻褄を合わせるような発達の仕方なのか、辻褄を合わせることが元々備わっているのか、どちらなのだろうか。

話が行方不明になった。