決め事・決まり事

決め事と決まり事の違いは何だろうか。決定に関与出来ると決め事で、関与出来ないと決まり事だろうか。

米国大リーグで活躍している選手が日本の高校野球のルールの提案みたいなことをネットに載せて、疑問が投げかけられた。仮に高校野球の選手で、そのルールに基づくと理不尽な状況も想定されるが、その状況をどのように思うかを問うものだった。反応は、ルールなら納得するというものだ。

このやりとりを見聞きして思うのは、ルールに基づく行動で最大限発揮することを当然とする見方と、ルールに対して変更する段階での見方で相当の違いがあると感じたことだ。この見方の違いには、関与の仕方の違いのようなものがあって、さらに極端に言えば、関与出来ないことが当然という暗黙があるのではないだろうか。

つまり、関与出来ないことを前提に決め事に対して後講釈する習慣のようなものを暗示しているように思えるのだ。

勿論、一律に解釈するものではない。しかし、暗黙の前提を共通の了解とする認識が広がると、認識も他人の一つの認識という位置づけではなく、共通認識とみなされてしまう可能性が高まるだろう。認識の伝播みたいな作用のように思える。

この仮定の通りに作用しているとすれば、本来は自身が関与すべき決め事も後講釈で批判する対象としての決まり事と扱われることになるのではないだろうか。

確かに、政治のあれこれは直接関与するものではなく、選んだ議員ではないかもしれない、みたいに考えるとかなり説得力がある。そして、評論家然として批判するのだ。ん?ここでは、はっきり後講釈で批判していることを忘れているわけではない。今、思い出しただけだ。

経済活動における決め事も、その決め事の経緯から理解する者と、決まり事の個々をお題目として記憶する者では、その枠組みの中で発揮する力も違うように思える。特に、業務の流れという決まり事は、作業範囲に限定して記憶するだけの者と、全体を理解する者では大きく異なると想像する。

頑張っていることを他人に理解してもらうことと、課題を解決することに注意が向くことと、どちらの視点が生産的だろうか。そして、その評価を確実に理解する為には、どのような方法が適切なのだろうか。

決め事を決定する経験と、決定による成果の実感が、さほど時間的間隔を空けずに持てることが必要だと考えている。つまり、試行と検証ということだ。

では、政治という舞台では、どうだろうか。一般論は理屈に合うだろうが、手段が課題になるのだろう。しかし、手段が編み出されれば、経験を積んでよい結果に結びつくのではないだろうか。