関連拡充

今朝の日経の経済教室で考えに意を強くした。経営での話というより、脳の中の概念という意味で、だが、そもそも同根かもしれない。

これに触発されたのか、ずっともやもやしていたことが一つ進んだような気がする。

関連づけることについて経験を積む簡便な方法というものを考えていたのだが、ゲームの類やプチ哲学みたいなものを浮かべても、しっくり来ない。しかし、何か方法があるともやもやしていたということだ。

犯罪も原因の一つに相手を重んじることを失っていることが挙げられると思うが、その重んじることを教育としては倫理観として解決しようとしているように思える。別な手段として文学や芸術という情操に委ねているとも解釈出来る。それらも否定するつもりはない。有効だと思うから理由と理解している。

相手を重んじることも、概念の関連づけと似ているところがあると考える。自身だけの世界ではなく、他人を含めた世界という広い範囲での評価を実感出来る理由も、概念の関連づけが広がっているからと考えるのだ。

倫理観みたいな方法の場合、前提にあるのは誇らしい人間像というものにあると考えられる。誇らしい人間像が念頭になければ、効力を失ってしまうようなことを考えてしまうのだ。

言いたいことは、概念の関連づけに心地よい実感という経験になれば、人間の自然に備わっている欲求に従うことになるのではないか、といった期待感である。

そして、その方法としては小中学校過程としては課題のままだが、要件は上の通りだ。大学とかの場合は、教養としての数学史を考える。

数学を実用性として捉えるから、問題を解くことが学ぶことと考えられているように思える。その側面を否定するつもりはないが、数学の歴史として扱うと、どのような課題に対して、どのような克服を重ねてきたのか、みたいな技巧的な話になりにくい扱いになると思う。

高校までの数学が不得意としても、得意でも、余り関係がないと考えるのは甘いだろうか。数学だから必要な知識が明確で、関連づけも明確なのだ。逆理とか、面白く感じるかもしれない。

とかく世の中で結果を求められると、即効性のある他人の努力の結果を利用しがちになるが、応用が利かない理由は、結果までの因果関係を理解していないからではないだろうか。その因果関係としての結果までの過程を歴史で追体験することで、実感することが期待出来る。

実感すれば、しめたものだろう。という考えは、誘導だろうか。大きなお世話だろうか。採用の数多くある提案の一つというつもりでしかない。

他人への説得という場面で情に訴える方法が見られるが、相手を侮辱しているように受けとめる人間もいると思う。いや、確実にいる。その一人だからだ。そんな場面を見て考えるのは、広く効果があると確信するからだろう。侮辱に映るのは、根拠を示さないからだ。情報を提供して、判断を委ねることが正統的に思える。情報を提供せず判断を強制するという構図に問題を感じるのだ。

広く効果があるという確信については、別の回で扱いたい。

関連の拡充とは、論理的思考というものを包含する意味で使っている。論理的思考という扱いになると、一見魅力的かもしれないが、概念の関連拡充の狭い意味でしかないと考えているので、もったいないと思う。もう少し広く豊かに考えることに結びつくことを想定している。

他人の考えを理解しないまま、判断するのは誤解の原因になるとともに、重んじる行為の否定につながってしまう。

重んじられないことに敏感で過剰反応になることを、もしかしたら避けられるかもしれないのだ。

繰り返しになるが、断片的情報の取得を知識とする解釈では無理が生じる方法として、知識の体系化を必要とする数学史を提案した。要件と効用は上に述べている。

思いつきのまま書いているので、論理展開は乱雑になる。一応、言い訳だ。落ち着いて書けば、雑にならないと暗黙で主張しているようだが、多分雑なままだと思う。そこに価値があるという感覚がないからだ。

ん?なぜ、こんなことを書いたのだろう。何か書く必要を感じたのだろう。理由を探りたい。