日本語と共感覚

制度が未整備の国で利己的に経済活動をする企業とか、先進国で活躍出来るのは色々な意味での基盤が整備されていることとか、なんか話が似ていると思った。富裕層は5%程度の負担ということにも頷ける。

それにしても、さすがに農業分野での先進企業と感心したと同時にやられたと感じた。バクテリアに既に目をつけているというではないか。

新興国の外貨準備については、少し考えたい。

共感覚とは、ここではある感覚が別の感覚に影響するという意味とする。

ぐっすり、とか、しっかり、とか。○っ○りという言葉がすっかり馴染んでいる。そして、言葉の説明を受けなくても通じてしまう風があるように思える。

これをどのように考えるか。仮説として日本語として、共感覚のような機能があるのではないかということを考える。

きっちりもしっかりも、仕事の場面でよく使われる。馴染んでいることもあるだろうが、きっちり相手に伝えたい時に使われるようだ。

この○っ○りという言葉をなんとかという言葉があるみたいだが、仮説を一般化して、共感覚機能が埋め込まれているというものにしよう。だから、これ以外にも共感覚となる言葉が存在すると仮定する。

この共感覚機能があることがよい場合とよくない場合があると思われる。色々あるだろうが、一つ挙げてみよう。

俳句や短歌、或いは川柳のように短い言葉で成り立つのは、この共感覚機能があるからと考えられる。

打ち合わせで実務的内容に立ち入らないことになりがちな理由は、相手も似たようなことを考えているという共通認識の理由は、この共感覚機能によるものと考えられる。相手も同じようようなことを考えているという認識が覆るのは、紛糾するまでわからないということだろう。

仮説も、その仮説が成り立つ前提での無理やりの結論も、考えてみるだけではあるが、妙に納得してしまう。そして、その機能を強化することがよいのか、避けた方がよいのか、或いは、強化する要因があるのか、そんなことを考えてしまう。

伝えたことが伝わっていないという事実をどのように考えるか。これが一つ数多く経験することの原因究明を長く続けているのだが、どうも言葉の内容ではないところが伝わっているような感じがしてしょうがないのだ。

その筋で考えると、今回のような仮説が登場することになったのだ。実のところはわからない。というより、しっくりこない。だから、究明は続くと思う。