横綱相撲

本来の意味はともかくとして、ここでの意味は相手との力関係の比較というより堂々と正攻法で戦うこととする。比較対象は、妙な技を繰り出して正攻法というより定められた範囲でギリギリの小技を使い尽くすという戦法になる。

実際の相撲のことはわからない。一般人が横綱と相撲がとれることは想像しにくい。しかし、幕内関取なら、横綱と対戦することは想定されることだろう。その取り組みで、始めから負けることを想定するのだろうか。

冷静に力関係を判断して最大発揮を目指して一見姑息な取り組みを考えることも、現在の実力の程度に関係なく最大発揮を目指して粉砕されることも、多分どちらも何かで努力しているのだろう。その努力を評価するか否かはわからない。

相撲に限らないと思う。堂々とすることで当面の負けを受け入れることも、現実の最大成果を許容される範囲でもぎとることも、どちらも何かの努力をしていると思う。運命と称して当面の努力をしない努力もあるかもしれない。周囲の理解を得られないこともあるだろう。

どちらが適切とは一律には言えない。個々の状況に依存する。

横綱相撲として考えるのは、当事者以外の視線だろう。横綱以外同士の取り組みへの関心と横綱が参加する取り組みへの関心は違うと思う。その関心の集中に登場すること自体に意味があると思う。

正々堂々とする経験は、求められる状況を予想しているのかもしれない。