比較

世間的に非難される人も罰を受ける人もいるが、罰を受けるべき者が受けずにいることが、承服し難いという気持ちになる。

危険ドラッグや詐欺で儲けている者がいて、捕まらないことと、頑張っているのにもかかわらず世間的に非難されていることを比較すると、やはりどこかおかしいと感じてしまう。

オリンピックや世界大会でよい成績を期待されて結果が伴わない場合に落胆することを越えて非難するようなこともある。

態度として好ましいわけではないが、選手の反論も気持ちとして理解出来る。

頑張っているという意味では、仕事の上で頑張っているのにもかかわらず、異例な事態に遭遇して不適切な判断をしたために刑罰を受ける公務員もいる。個別の話として擁護を主張しているわけではない。そのような異例な事態に遭遇しなければ、恐らく平穏に過ぎたであろうと強く予想出来るから、そんな状況を逃れる構図を考える必要に着目するのだ。

現在では少なくなったと思うが、会社のために頑張っていることが社会的に不適切な行為とされることの抑止力は社会的認識と言えるだろう。

一人の行為を罰すれば話を終わらせることは、ノモンハンと同じようなことを感じる。もし、話をそれで終わらせずに、失敗を認識して防ごうとするのは、社会的認識のようなものがあるからだろう。

ということは、その社会的認識のようなものがない理由なり、社会的認識を浸透する努力方法を考えることは意味がありそうだ。

個別の話で考えることを否定しているわけではない。個々の話で共通するなら、個々の固有の状況にこだわらないという有利な面があると考えられないだろうか。

努力している人間の少しの失敗を責め立てて、一体どのような意味があるのだろうか。努力を活かす方向で失敗を暖かく見守る態度こそ求められるように思える。

少なくとも公務員の刑罰に至る失敗を防止することを業務の円滑の観点で考える必要があると思う。個々の話で終わらせることがよいとは思えない。