社内評価
今朝の日経に触発されたのかもしれないが、社内での評価の方向性と事業の方向性が同じで、社外に対しても明確であることは様々な利点があると思う。
仕事をする上で、どのようなことに重点をおいて進めるか、多様であることと、混沌としていることは異なると考える。一定の確かな土台の上で成り立つことと、勝手に土台としてしまうことの違いのようなものだろう。
進む方向を共有するから、その速度や進め方に多様性があるのであって、勝手な方向に進んで、それが仕事として成立するとは考えにくい。
意見の違いも、どのような土台の上での違いなのか、そのような共有を確認しないまま、結論だけを述べあっているのは馬鹿らしいと感じる。
何度も出てくる経験だが、当面の課題の終点を定義して、終点での結果さえ出せば、過程は不問とすると考えるのだが、疑問が解消されないという理由で進めていない。疑問の説明がないので、答える義務感も持ちにくい。ところが、疑問に答える必要が、どうやらあるらしい。不思議な疑問だ。
このような、勝手な土台を作って、その説明もしないことを当然とするのは、恐らく土台が色々あることを想定していないからだろうとは推測する。つまり、どのような土台なのか、不明であることを主張すること自体が意味不明なのだろうというようなことだ。
いつの間にか、説明もなく義務感だけ持つことが当然という前提のようなことが度々あると、それをおかしいと思うことがおかしいというような摩訶不思議な思いに至る。まあ、敬遠することが望ましいことだろう。
課題の成果を定義すれば、どのような疑問だろうと、その定義に従う限り自由にする以外の解釈が理解出来ない、というようなことになるわけだが、疑問に対して理解出来るなら拒絶する意図も当然ない。
特に、抽象的な疑問ほど厄介なものはない。道に迷って、右か左か迷っていると言われても、どの地点で迷っているのかわからなければ答えようがないと思うのは、迷いそうな地点が沢山あることを知っているからだろう。どの地点かを説明する必要性を感じないのは、沢山あることを知らないからだろう。
別の話だが、抽象的に理由の必要性を問うことを考えると、理由がないことを想像することが出来ないから、その問いでの必要性を考えてしまう。
つまり、そこには、誰かに理由を説明することが暗黙の前提になっていることが推測出来るということだ。そのような省略された情報を認識しないと、理由がなく性質だけ存在するという状況を受け入れる条件を考える方向に意識が向くだろう。
このような、単に情報を省略してしまうことよりも、効率的には結果的に省略しても省略を明示するなら解釈の違いが生じにくいという配慮になるだろう。
その意味で、在庫の棚卸しのように、業務の流れを点検することは有効と思われる。暗黙の状況を顕在化するなら、一層の意味があると思う。
評価ということに着目してみたかったが、少々外れてしまった。