負担感

ここでの負担感とは、負担を感じることだから広い意味になる。その広い意味の負担感を少し限定して考えてみる。

負担を感じる対象を何かの達成としてみる。この達成の構図として、他人と自分の関係を一般化してみると、達成目標の提示を他人から受けることと他人に渡すことを想定する。つまり、作業を指示されることと指示することみたいなものだ。そして、自分の行動がある。

この時、提示を受ける時点と提示を渡す時点と、達成を確認する時点が考えられる。

ん~、整理してから始めた方がよかったようだ。率直に言えば、役割を分担して指示することは、達成することが予想出来るから、という前提があるだろう。また、他人に指示しなければ、自分だけの行動になる。

達成が容易と予想するなら、着手前に労力が少ないと感じるだろう。遂行していくことで判断材料としての情報が確実になっていくとしたら、その情報の確実性の予想に依存するだろう。

と、少々思い出したことがある。起業というか、事業について、夢があるから起業する、目標があるから成長する、官僚化で衰退する、みたいなことを聞いたが、このことを少し分解すると理解しやすいように思える。

やることの設定について主体的であるか、ということと、やることの大きさということに大きく分解出来るとしよう。

官僚化とは、やることの設定について主体的ではないということではないだろうか。主体的に設定出来るなら、やることの大きさは、もしかしたら大きい方がやりがいがあるのかもしれない。

このことだけで何かの結論が導き出せるわけではない。しかし、いわゆるアニマルスピリッツは主体的であることが要件のような気がする。

逆に義務感は負担感を増すという関係を想像する。

見通しのよさとか、周囲の理解力とか、色々な要素も考えられるが、着手時点での負担感を軽減することだけを考えると、主体的ということを重視する意味があるのではないだろうか。

短絡的に考えることは避けたいが、起業の環境として主体的であることは大きく影響するのではないだろうか。

子どもが医療検査を受ける時に、見たこともない検査装置で泣き出す子どもが多いという状況で、検査装置を遊園地の設備のようにして逆に次回も要望するくらいの楽しみにしてしまうような事例も、この主体的であることの一つだろう。

認識を変えるだけで随分違った状況になるとしたら、それはどのような作用と整理出来るだろうか。

他人への影響という観点でみると、危険性と微妙な関係にあるから、難しい。