意欲と責務

以前、プロ意識というもので色々書いた。なんとなくひっかかるものを感じていたが、明確には理解していなかった。

そんな、ひっかかるものを無意識の処理に任せていると、いつの間にか意識出来ることがある。今回もそうだ。

その時点で世の中の理解を得られていなくても、後世に評価されることがひっかかるものの正体だった。言われてみれば大した話ではない。それはそれで戻るようなこともない。

このような、なかなか理解が得られにくいが、結果的には世の中の為になることは沢山あるだろう。理解が得られないことで物事が進まない場合と得られなくても進む場合があるとしたら、周囲との関係はどう考えればよいだろうか。

すぐ思いつくことは起業かもしれない。しかし、限定する必要はない。

内容はともかく、構図としては何か役に立つことと、それに対する周囲の理解と理解することでの何か、つまり、有利不利を両者の視点で評価することとしてみよう。

周囲との関係がない状況とは、単独でことを成すことである。比較する対象とする基準がないから、この場合行動するか、しないか、だけのことになる。

ん~、話が込み入りそうだから、起業で言葉にしてみる。

起業の意欲があって、単独で成り立つなら、起業するだけのことで、失敗と判断するのは自身だろう。

周囲の理解があれば、資本は集まりやすい。これが大きくなると意欲を評価するだけでは済まなくなってくる。

これが意欲と責務の関係のように思える。

意欲と責務の関係を裁量と期待の大きさとするとわかりやすいかもしれない。裁量が大きく自身の判断で物事を左右しているという実感は意欲と関係するだろう。一方で、期待される成果をあげる責務も感じるだろう。

少し前に、夢と官僚化のようなことを述べたが、構図としては似ている。

この意欲の要素を無視して責務だけを仕事とすると官僚化ということになると思う。

例えば、単調だが失敗が許されない仕事を想定すると、責務だけみたいなものになる。

ある地点から別の地点まで移動することを単調としよう。数歩の距離を歩く行為と表現すると単調に感じるだろう。しかし、多数の観衆が見ているところで綱渡りをするとしたら違ったものに感じるだろう。まさしく、見方で違った風景になるということだ。

単調な仕事も数千万人もの監視される状況とするなら、意欲を増すか、臆病風に吹かれるか、それなりの風景の違いになると予想出来るだろう。

何かを訴えたいわけではない。単に意欲と責務の構図を整理しているだけの話だ。

このように物事を一般的に見ようとすると理解出来ることもあると思う。その構図を直接説明しようとするから理解を拒絶されるのかもしれない。

なんというか、経験的に話が通じないことの理由の一つが、今わかったような気がする。なんで通じないのか、というより話を聞かないのか、みたいに困惑する状況のようなことだ。

それは置いとこう。

意欲を増してもらうという立場を想定すると難しくなる。教室が想像しやすいかもしれない。しかし、これはこれで深く考えたい。

他人を観察すると理解しやすい。自分のこととなると理解しにくい構図の一つがここにある。意欲を感じることを当然とした時点で、責務だけを感じる発想を理解することは難しいということだ。

他にも理解の助けになると考えること自体が今回の話かもしれない。ん~難しい。