理解と愛と憐れみ
飲んでいる。
理解や愛、憐れみを受けるより渡すみたいなことが宗教関係者を言葉として歓迎されているらしい。直接の言葉はもっと素直な言葉だと思う。
愛と憐れみは受信するものという感覚がないので、発信側の立場以外がわからない。しかし、理解は、受発信のどちらでの立場でもあるだろう。片側が有利ということもよくわからない。
愛や憐れみを受けると義務感を伴うと感じるのは違うのだろうか。
言葉を言葉のまま使うから、様々な解釈、というよりどのようなことを重視するか、ということの違いを明らかにして、そのどの立場で有利不利という判断をするか、そこを省略して受け入れることが不思議に思える。
愛とは、相手を尊重する感情を一種だが、意味は広すぎると思う。蟻を見て、愛することを感じても、愛されることを想像出来るだろうか。
同じように、憐れみに対しても言えるだろう。
しかし、理解は異なる。蟻に対して、自らの行動を読み取ってもらうと行動を変えることが可能になるだろう。
蟻と人間が違うと言うなら、それらと人な間に変えて受け取り方が異なるならば、その理由こそ重要な点だろう。
他人に対して、愛や憐れみを感じても、それらを期待するのだろうか。期待するとしたら、受け取ることをどのように確認するのだろうか。そして、確認出来るとしては、嬉しいのだろうか。そこがわからない。
しかし、理解は理解されなければ、行動の意図が伝わらないだけではなく、逆効果もありえるということだろう。誤解というより攻撃とみなされることを素直に受け取ることがよいのだろうか。理解出来ない。
多分、色々な暗黙の前提があると思う。斜めの解釈の意図があるわけではないから、その暗黙の前提こそ重要に思える。
もっと率直で言葉にしよう。施しを受けるより、施しを渡すことを願うとしたら、どう受け取るだろうか。
施しを受けるような立場になるより、逆の立場になりたいという解釈も成り立つだろう。恐らく、立場として受け取る側だとしても、逆の立場の精神でありたいということだろうとは推測するが、立場の実感がないからなのか、それがどれほどのことなのか、理解出来ない。
しかし、立場を異なる立場の人間に理解してもらうことは別だろう。
語感とか、そのような問題ではないような気がする。言葉の使う文脈を知らないとなんとも言えない。
その意味で、独大統領の言葉の独り歩きを浮き出したのは、的を射てるかもしれない。どの的かはわからない。