副大臣

内閣改造があった。副大臣や政務官も交代があるのだろう。組織の長の次の地位について考える。

政治に限らないと思うのは、組織の長については世間の目が注目するが、比較すると次の地位には注目がそれほどは集まらないということだ。

世間の目とは、要するに実質的に牽制が機能しているということだろう。注目が集まる集まらないという点だけで全てを語ることは出来ないが、それなりに関係すると考える。

牽制が機能するとは、地位に応じた働きを求められているということとしよう。だから、裏返せばそれに応じない働きに対する牽制ということだ。暴走したり、無為に過ごしたりすることへの歯止めと考える。

ここまで書けば、推測するだろう。組織の長の次の地位は、その歯止め効果が弱いから暴走や無為につながりやすいと予想するのだ。

会社でも専務辺りが危険に思う。例えば、役職を全うすることは、組織の長に対して批判的意見を述べる必要の状況がありえる。その件に関して詳しいことと、対処の判断の所在が異なるというようなことは当然ありえるだろう。反感を恐れて放置するか、恐れずに職を全うするか、みたいなことが想像出来る。

これが隠匿体質の温床の一つだと考えているのだが、原因は様々に求められると思う。

次の地位だけに原因があるとは限らない。長が耳の痛い話を聞く構えがあることが必要なのだが、その構えがないか、その構えがないと予想させてしまうか、のように長に原因がある可能性もある。

意図して長と異なる方向に暴走することや期待される能力を発揮しないこともあるだろう。それらは上司部下の関係と言えるかもしれない。

組織を遠くから眺めて、問題を孕んでいる気配を感じるのは、この次の地位からだ。どのように感じるのかは、よくわからない。ただ、感じるとそれが当たることが多いような気がする。だから、何か述べる義務感みたいなものを感じるのだ。

説明出来ない事象は放置しておこう。

では、副大臣についての牽制機能は何に、或いは、どこに求めるべきだろうか。野党と報道機関だろうか。その認識は共有しているのだろうか。この辺りが整備されていないと思う。

整備されて困るのだろうか。それもあるかもしれない。

このようなことは、どの内閣に対しても共通することだろう。それとも、長に責を求めるということなのだろうか。

多分、問題が生じても、個別の案件という認識になるのだろう。それでよいのだろうか。