紙と鉛筆

紙と鉛筆で何が出来るだろうか。その問いへの反応は様々だろう。劇場で何が出来るか、コンピューターで何が出来るか、それらの問いと似ていると思う。

時々、同形という言葉を使うが、数学の用語を借用している。相似という言葉もあるが、同形の方が使用に合致している。本来の意味は割愛するが、借用としての意味は、機能の作用の仕方が似ているというようなものだ。

上の問いは、対象は全く違うが発想の豊さに応じて利用価値が高まるようなところが同形に感じる。

使い方が下手でも、利用方法が上手というところもあるように思える。

では、対象を会社や政治にしてみよう。不謹慎かもしれない。しかし、考えるだけなら、制約されないと甘えることにする。

不謹慎なのは迷惑な事態が容易に想定出来るからだろう。他にも理由はあるかもしれない。しかし、その理由を制約するならば、自由な舞台とも考えられる。ここに政治家や経営者に対して創造性のような期待を持つ理由があるように思える。

そして、政治家や経営者に限らないということも言えるだろう。何かをする舞台装置は様々ということを指す。

これが大欲に通じると思う。ここでの大欲とは、欲求の最上級のようなものだ。例えば、平和に貢献したいという大欲を実現する方法は様々だが、自由な舞台に共感してもらえれば、より強力に協力してもらえそうだ。

人類が初めて火を目にすることを考えてみよう。実際には哺乳類以前に火を見ているはずだが、話の腰を折らずに進めてみる。初めて見る火に脅威を感じても、活用法にまで思いは達しないだろう。しかし、現在では様々な有効利用をしている。これの同形は色々あると思う。それが発明になったりするということだろう。ここにも世の中への貢献が求められる状況が理解出来る。

真理の探索は、活用法の事前準備みたいなもので、発見は、冒険の達成にも似ている。その意味で賞賛されることは理解出来る。

しかし、別な見方もあると考えている。歴史上の武将を倒した武将は語られても、弓や刀で下した兵は歴史に埋もれている。数打ちゃ当たる鉄砲なら、なおさらだろう。大将首を真理に擬すと、首を違えて褒美をもらうことの愚が容易にわかる。そして、いつかは誰かの手によって間違いなく倒されるのだろう。倒されずに、別の武将を倒すことになるかもしれない。つまり、真理ではないということだ。

歴史を振り返れば、手柄と思うことも陳腐化して見える。しかし、自信を失う必要はない。ただ、頂上の高さに意識を持つことが自信のような気がする。小高い丘で満足することも出来るし、さらに高い山を意識することも出来るということだ。

同形という言葉ではなくても、他人の活躍を自分の分野に置き換えて理解出来ることもある。やはり、同形のようなもので理解するからだと思う。

自転車に乗れればよしということでも、自在に乗れる人にとってはその程度で満足しないで努力するからだろう。この満足しないことは、そこに自由な舞台を感じるからと思える。この自由な舞台が他人に迷惑にならないことで、世の中の何かに貢献するのではないだろうか。

真理探索を戦場と見るか、自由な舞台と見えるか、それは個人差があると思う。誇り高い騎士の活躍と見ることも出来るし、周囲に理解されない疲れ切った変人に見られるかもしれない。

恐らく、他人に自分の見方を強要することは不幸な事態を招くと予想する。様々な見方が一覧表に掲載されていれば不幸は生じないかもしれない。しかし、変化の激しい複雑な世の中で、一覧表の更新は正確に速やかに行われることは想像しにくいだろう。

経営者を合議で決める良さと欠点を認めて、欠点を補うことを求めるか、舞台を変えることが世の中に貢献するか、様々な見方があると思う。発想の豊かさが必要な経営を求めるか、遍く理解される経営を求めるか、どちらかだけが正解ならば、どちらかだけが存在するだろう。つまり、どちらかだけが正解ではないと理解する。

紙と鉛筆で何が出来るだろうか。その問いへの反応は時とともに変わるかもしれない。