意欲の空回り

自由な舞台を得られて、活躍出来るとしよう。周囲との関係を考えてみる。

当人が舞台を適切に理解することを前提として、周囲が同じ程度に理解することと全く理解しないことが考えられる。また、不適切な方向に理解することも考えられるだろう。

結果に至るまで単独が可能ならば、結果で周囲はある程度判断出来るだろう。単独では結果が得られないことに制約が生じると考えられる。

少し象徴的な例に話を託そう。

絵画を単独で完成させたならば、その結果としての絵画を周囲は評価出来るだろう。同じ時代ではよい評価ではなくても、後世代で高く評価されることもある。

会社経営で、事業の革新的な変更は理解が得られないこともあるが、よい結果になることもある。絵画と異なり、事業の失敗は数万人の人生を狂わせる可能性がある。つまり、数万人への影響という人質に対する責任感のようなものを無視することは出来ないという事情は存在するだろう。

だから、結果的な成功に着目して賞賛することだけが正解でもないし、成功を無理解で封じることも不適切と言えるだろう。つまり、どちらかだけが正解という状況ではないと考えられる。

ここで考えられるのは、他の判断要素ということに尽きるだろうか。それで話が終わることになると考える根拠の所在がわからない。

ここまでの構図は、適切な見方をする人間を前提として、周囲がそれを理解しないという状況だ。だから、理解が進む努力を無視することは出来ないと考える。

自転車の運転で、身体を左右どの程度に動かすことが適切かの判断を運転する本人より、熟練した人間の方が適切である状況を想定してみよう。スポーツ全般かもしれないが、判断が適切でも結果に結びつくことは困難だろう。練習を積んで、という意味ではない。その時点、直面する固有な状況を対象とするからだ。

経営にも似ている構図は当然ありえるだろう。担当者は、経営方針を適切に理解しないで独自の判断をするような類を指す。

かここに適切な舞台の理解と、その浸透が要請される状況が理解出来る。

説明不足または理解不足を補う方法もあるかもしれないが、代替手段と捉える。例えば、成功という結果で判断の適切さを実証することで、直接不足自体を補わず無批判に言葉を信用させて補完手段とするようなことだ。誤解される恐れがあるので、気持ちとしては触れたくないのだが、奇跡を起こして信者を増やすことも似ていると思う。

では、このような構図は常に千差万別で固有の状況と言えるだろうか。何か共通するもの、原理のようなものの存在を求めることは無駄なのだろうか。

社外取締役の導入を結果として求めることよりも、その要請される構図の理解が優先されるように思うのは、今回の話と同形のように思える。

見方とは様々で、様々な層で構成されるとするならば、その上位層から下位層の具体的状況を把握仕切れない資源不足、或いは上位層に専念する価値という事情もあるだろう。

なぜか、このような積層の構図では、大乗仏教小乗仏教というものを連想してしまう。確かに似ているところはあるが、今回は触れずに進めよう。

上位層では、表面的に捉えがちになる傾向があると認めて、上位層に対して優しい姿勢の努力である簡易な説明が望ましいという見方と、上位層が下位層の状況を具に認識する努力こそ望ましいという見方があると考える。

恐らく、このような構図だけでどちらかだけが正解ということではないだろう。しかし、構図を理解することは可能だろう。認識の共有の出発点かもしれない。