事実の創作

歴史の歪曲や実験結果の捏造は事実を誤った解釈として括ることが出来る。それを考えてみる。括り方が不適切という見方については、甘んじて受けよう。

事実の確認という点だけでも様々になるだろう。万の一つだけを取り上げて、他を切り捨てることが適切とは思えないだろう。また、逆に万の一つを見逃すこともあるだろう。事実のどれもが、同様な評価になるならば、このような問題はないかもしれない。しかし、実際には事実の認識だけで様々な問題があると思う。

事実とは別に、意図が誘導することも考えられる。金融政策で伝統的な通貨供給量の増加である信用創造としての融資が増える見通しがないことを持って、量的緩和策の効果に期待しないという意図も、もしかしたら事実の誘導かもしれない。それはわからない。単なるbiasかもしれない。

意図の多くは、自らの成果達成ということにあると思う。政治家は、その最たるようなものだろう。

発言の根拠が単に印象ということが多いことも、話を難しくする。他国のことは不明確なことが多いのに、印象で事実として結論を導き出すようなことを指す。仕方のない面はある。人間は、不明確な状態に我慢出来ない性質のようなものがあると考えている。それが理由と思う。

揶揄する目的も難しい。漫才のような芸の上のことを前提にする場合と、何らかの意図を目的に行う場合とでは、受け止める側も受け流しきれないこともあるかもしれない。

人間を介在すると状況が複雑になる。

では、人間が介在しなければ単純だろうか。

落ち葉の落下地点の予測ということを考えても、実は難しいと思う。どの程度の精度を求めるか、その精度はどのような判断で決めるのか、その枠組み自体の設定が確実ではないことが理解出来るだろう。

経営も短期的成果だけを求める株主が、会社を渡り歩くことでよい面と悪い面があるだろう。短期的な縛りを拒んで鶏肉にこだわり問題を起こさないことも評価出来るのは誰の、どの立場なら可能なのだろうか。放漫経営を素早く立て直すことを拒否して問題を大きくすることもあるだろう。

恐らく、長期的には解明されることが多いと思う。しかし、素早く実行することが求められる状況では、選択の唯一の正解はないだろう。

素早く実行する時に、判断材料の収集で大きく左右されることになるかもしれない。つまり、情報は様々な人間を経由して伝達されるという構図に制約を受けるということだ。

いつも冷静な人間と評価される理由が顔面の症状によるものとして、その理由を知らなければ、冷静な人間という評価のまま継続されるだろう。肉親の事故を聞いて笑ってしまうことで、その笑ってしまう人を肉親に冷たいと感じることが多いだろう。しかし、驚くべき事態にそのような感情表現になる現象はあるらしい。

人間の判断は経験に左右される。しかし、経験だけでもない。世の中の珍しい事例は、自らの経験として積めることには限られる。限られた経験だけで判断することの不幸に思い至るならば、経験を擬似的に拡大することは可能になるかもしれない。それがビスマルクの言葉になるのだろう。

事実の創作を無批判に受け入れると不幸になることが多いだろう。無批判に受け入れることを抑止する方法を持つ必要性がここに認められるということだろう。

括り方にも何か深く考える余地がありそうだ。しかし、別の機会に委ねよう。