背負う

実録が出来たらしい。ノンフィクション作家の感想に同感する。

新聞に紹介された一部を読んで、なんとなく感じるものがある。それは、海軍を舞台の小説と印象が似ていると思うところだ。biasの可能性があるとして、強く納得することを避けてきたが、やはり陸軍の暴走と思う。

新聞に掲載されたノンフィクション作家のコメントにある通り、背負っていたのだと思う。背負わせたという表現で、「誰」が背負わせたと具体的には言及していないが、「世の中」になるのだろうか。時代かもしれない。

この背負うことを考えてみる。

責務とか責任とか、類似の言葉がある。より具体的に所定の何かを想定している言葉のように思える。背負うという言葉は、より抽象的な位置づけで捉えるものに思える。どちらかと言えば、自覚を強く持つことかもしれない。

秩序のない、自然な集団でも統率を強く望むことがある。このような時に自然発生的に生まれる指導者が持つものと感じる。要するに、何かをする義務感みたいなものを感じるから発生すると思うのだ。

他の誰も積極的に動かないというより、正確な状況判断が出来ないと感じるからではないだろうか。そして、それを発揮する場面であることもあると思う。

これを単純にすると異例な事態に遭遇して、その状況判断と実行を指導する義務感を感じるということだろう。

逆に言えば、通常時では判断も行動も、指導を必要とせず自律的に行われるということなのだろうか。

ここまで書いて、気がついた。自らの結果というより、他人の結果に縛られるという状況も考えられる。尻拭いみたいなことだ。実行前の時点で意見を異にすると、この感覚はあるかもしれない。

だから、背負う人を育成して、背負う状況にならないことを目指すということだろう。ん?安全保障?

背負う人の育成とは、人工的に行われるものだろうか。或いは、自然に行われるものだろうか。或いは、行われるべきものだろうか。個々に感じて個々に発揮するようなもののような気がする。

だから、今は危機的状況ではないと野党として身をおく人がいるかもしれない。では、どんな時に何を発揮するのだろうか。それが多様性なのかもしれない。

平時に全員の最大限の発揮だけを目指す努力が、異例な事態での対応に適切ということではないことが上のようなことで理解出来る。でも、平時に不活動ということも効率的に思えない。

やはり、歴史を学ぶ必要があると思う。その歴史から学ぶことは様々で構わないのだろう。何を学ぶのか規定せずに感じるものを増やしていけば何かにつながっていくのだろう。

実録も、その一つなのだろう。