被害意識

今朝の日経の経済教室はよかった。ほとんど賛成する。ただ、どのようにしてその考えを持つようになったか、そちらに関心が向いた。専門分野が何かがわからないが、色々な分野と交流しているとしか想像出来ない。

わずかな例だが、ハンディを持つ人が被害に遭う事件が報道された。これ自体は他の人と同様に悲しいことと思う。気になるのは、過剰になることだ。

誤報やコラム中止についても、それ自体はないにこしたことはないだろう。しかし、やはり気になるのは過剰反応だ。

毎度のことながら、同形のようなものを感じる。自分は安全地帯にいて責める構図のようなものだ。この構図を感じるから気になるのだろう。

不祥事についても同様だ。どこか責めを負う部分を抱えるとみなすと、やはりそのような構図に見えてしまう。よりメタ的に見れば、今のこの話も同形と言えるかもしれない。

人間には、ミラーニューロンがある。これが働いて自分が被害を受けたかのように感じるのかもしれない。これもなくはなさそうな気がする。

自己を優位な立場に置きたがる習性という解釈もあるかもしれない。これを直感的には感じる。

対象を同じにして、この構図のような作用が多数の人間に働くとしたら、社会的影響は大きいだろう。ここに今朝の解説にある通り、国内への不満封じ込めの為に国外に強く臨む理由があると理解する。

要因と作用する対象が異なるだけで、括れば同形なのは沢山あると思う。恐らく、多くはよい影響ではないだろうが、影響の善し悪しは問題にしないで、解消の方向に意識が向かう方がよさそうだ。

その他に気になったのは、中国の首相の記事と仏元大統領の話だ。

中国の首相の考えは、現在の中国の枠組みを前提にするならば、多分最善だと思う。基本的に経済の市場化という流れに抗うより乗った方がよいだろう。しかし、制度は政治に左右されるから、現実には効率的な市場になるという感触が持てない。

その典型例が公正取引に表れていると思う。ここの感覚を政治の立場から正当化して解釈すると予想するので、かなり困難な道だと思う。

元大統領の人工知能への関心に感心した。この話を読んで昔の仏の政治家は偉かったと素直に感じた。勿論、今と比較している。

多数の発達の経路は直線ではない。つまり、結果的に無駄が多い。それは、個々の時点での最適探索は直線上にないからだ。この事実を認めて無駄を受け入れるか、認めた上でより直線を求めるか、認めずに別の判断をするか、そんなことが歴史から読めるように思える。