発達の経路

生物の進化や社会の発達について考える。

現状と比較して、よりよい状態に変化することと捉えれば、進化と発達は同形とみなせる。つまり、現在の状態を認識して、悪い点を修正するか、より望ましい状態を探索することがあると考えられる。

考えるのは、状態の評価と探索だ。善し悪しの評価がなく、幸運な変化を獲得することは積極的に肯定することは難しい。しかし、否定は出来ない。

また、変化方向への探索がなく幸運を手に入れることも同様だろう。

では、そのようなもの、つまり、評価と探索は存在するのだろうか。進化と社会の歴史からの傍証として強く感じることが出来るが、感じる根拠を示すことが難しい。例えば、動物の生態から、雌が適者生存の選択をすることで、一つの進化の可能性を予感するが、根拠とすることは難しいだろう。社会の制度や文化といったものも、個々の選択から評価と探索をは認めるこは可能かもしれない。しかし、政治による変化以外に評価と探索の根拠を認めることは、やはり難しいと思う。感触はあるかもしれない。

では、舞台を生物や社会にせず、そのような仕組みがどこかにあるだろうか。実は、工業技術の分野では認められると思う。いわゆる知識や技術の積層化といった発展が証拠づけられていると言えるだろう。

この発達の存在を仮定して、話を進めよう。生物や社会が適応するという仮定ではない。

仮に、個々の実績を明らかにすることによって、様々な経路探索の一般的理論が導き出せると考えてみよう。この手法自体は、様々な事例の解析や実験の分析と同じと考えてよいだろう。であるなら、その分析結果で理論の導出を期待することは、飛躍した論理ではないと思う。

例えば、探索の方向の最適探索についての共通する要素と作用といったものは考えられる。個々の場面では、研究開発といったものに相当するが、成果目標の決定要因には、正の方向としてのよりよい状態、負の方向としての修正と利用資源制約が考えられるといったものになる。

仮に、一般的理論が仮定されるとして、舞台を別に求めて証拠づけられるとしたら、活用範囲は劇的に拡大すると予想される。

かなり強く確信するのだが、扱い方に悩む。

例えば、高度に複雑な発達に対しては、迂遠な経路に依拠することを予想するのだが、そのような証拠を収集するよりも、理論の成果を主張することが優先されるような不安がある。難しい。